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今さら日イのはてな

2020年6月 2日 (火)

インドネシア新聞の恩人からTirto.id

20200602最近の検索でポータルのTirto.idがある。このTirtoに関心があり、調べると英雄叙勲を受けているRM. Adhi Tirto Surjoという。スルヨと言えばスルヨシリーズで3人も上げていたが4人目かと最初は思った。結論から言えば小生は過去のブログに、名前はAdhi Suryoとして、1909年のバタヴィア・イスラム商業同盟を設立した人として説明している。説明を更によく読むと正式にはRM.Djokomono Tirto Adhi Soerjo で、38才の若さで亡くなったが、オランダ植民地政府批判の多くの新聞を発行し、イスラム同名はチョクロアミノト師に引き継がれていった人で彼の名前のニックネームでTASとして敬われたそうだから Tirtoは大事で省略してもTirto Adhi Suryoとすべきであった。 序だが英雄の中にRMと言うのは何人かいるがこれはRaden Masで爵位のようなものである。
このポータルTirto.idはこのインドネシアの新聞英雄の名前を頂いて2016年に発足したもので、編集長・社主は A. Sapto Anggoroで有名なポータルDetik.comと姉妹である。
彼は1966年ジョンバン生まれスラバヤのジャーナリスト専門大学を終了しスラバヤポストからハリアン:ブアナ、リパブリカ新聞を経て1990年にDetikに参加、COOになっている。2011年にmerdeka.comも設立、Tirto.idは上記の通り2016年設立である。
Tirtoと言うのは水を表すTirtaの代替しており、水は流れ、満たし、深さを現すということをVision・Missionに掲げている。

追記:6月3日
Tirto.idの創設者Sapto Anggoroは記載したが、主筆とか技術主幹も多分共同創設にかかわった人だろうと思われるし、名前がいずれ関係する人に繋がる気もするので名前だけでも挙げて置こう。
Teguh Budi Santoso (Chief Content Officer)
Nur Samsi (Chief Technology Officer)

会社は設立3年で純資産はRp4,000億に達っしているそうだが、ポータルが多いインドネシアでは欧米系大手を除いてインドネシア民間だけでも25位くらいになりそうだ。

追記の序と言うと失礼だが紹介に入れるべき重要な功績がある。 ASAというPadepokan と双眼鏡binocularと言うメデイアモニタリング機関も創設、又著作に“偉大なる伝説Detikcom”と言うものと“マントラを正確に”とがあると言うものである。

2020年5月26日 (火)

人生はレンコンの如し

Liku2 kehidupan like Lengkong
Bsd-2008-mar-049
出会って気になる言葉はlika-likuである。30年も前に、ジャカルタ赴任後会社の大女優に畳語と日本語に近い言葉として習った単語だが、残念ながら使うことはまずなかった。意味は曲がったとか言う意味乍らwikiの例文などからもっと人生の深い意味があるようだ。Liku2はLika-likuとも変化するが後ろにkehidupanと続くとインドネシアの偉大なる作家Pramoedya Ananta Toerが使った言葉なのか“Untuk berjalan melewati lika-liku kehidupan manusia, seseorang memerlukan cahaya kebijaksanaan dan panduan kebaikan. - Buddha. Betapa sederhana ini sesungguhnya yang pelik cuma liku dan tafsirannya が出ている。人間の人生という曲がりくねった道を歩くには、仏陀の知恵の光と恵みの導きが必要です。ただ生きることは複雑なひねりが用意されその神の意志を解釈するだけです、というような意味なのか、小生の訳は適当だ。曲道は迷い道でもある。(渡辺美智子、曲道、分かれ道はアグネス。Kok)
それは差し置き、この曲がるという同意語にLengkongがあった。レンコンは穴は開いているが真っすぐな気もするが、根は節目節目に曲がって繋がっている。それも差し置き、BSDの郊外に、ダーンモゴット隊の散華したLengkongの碑は昔、訪れブロクにしたことがある。

2020年5月25日 (月)

本当のハムカの信念 blak-blakan Hamka JOSEF 

20200525-2Jasa Margaの独占高速建設に民間が許され手を伸ばして来た企業の最初がCMNPであったが、この会社は物の本ではTutut所有となっている。今の役員の中の一人Feisal Hamkaの係累にJusuf HamkaがいるがJusufはCMNPやIndosiarの相談役でもあった。その前にはIndomobilの監査役なども歴任2018年にはJokowiの金庫番(Bendahan)だった。社長のFitrya Yusuf女史はJusufの長女で、やはりIndomobilやIndosiarでのトレーニングを受けている。本人はファッションや化粧やおおしゃれのビジネスもやっており或いは著作にもいそしむ美人だ。彼女の職歴を記載すると Director dan Editor In Chief Aesthetic Beauty Guide Indonesia, MRA Group CEO PT Fifefa International Jakarta 2011より, Komisaris PT Mitra International Resources 2009より, Fashion Contributor Eve Megazine 2007より。 Executive Director Ivy Boutique 2006-2011, Co-Founder Twinkle Twinkle, Fashion Editor Majalah Dewi 2004-2006 Promotion and Marketing Majalah Dewi-Femina Group Asistant Brand Manager PT Indofood Fritolay 2004 Management Traine PT Indosiar Visual Mandiri 2003 Management Traine PT Indomobil Sukses International 2002 学歴はMenlo College San Francisco&Bachelor of Science in Business Administration jurusan Marketing di GS Fame Institute of Business, Jakarta 2004である。. 次男Farid Hamkaはマッキンゼーで働いている。 所でGoogleでHamka  + richestで検索してもForbesもGlobeにもリストには出てこないが、昔どちらかにWidjaja Ekaさんすら出てないかったのでそれ以来信用していないので先に進むと、Jusufは上記の他MandaraやMitra Kaltimなど多くの重要な役職に就いていたが、人々と分かち合うことを忘れなかった。彼はdhuafa(?:貧困・社会的弱者)のためのWarung Nasi Kuning 名物のPodjok Halal(元は7-11か)という店を創設し、若者の為にナシ・クニン料理を提供するほかTommy Winataと語らい、タンジュン・プリオクの高速の近くに、Masjid Babah Alunモスクを建設した。(Winataはアンチョールで病院も建設しており、今回コロナ疫病で提供している。) 彼の伝記には宗教欄はブランクになっていたのであるがその頃は入信していたのであろうか。 学歴は国立8月17日大学の後、コロンビア大を卒業している。 本体CMNPの社長のFitria Yusufは、父に従い2020年3月にイスラム入信した。 中国人ながら親子共々、1,000のモスク建設の希望を持っている。 Jusuf Hamkaは1957年サマリンダ生まれで、名前のハムカと言うのは子供の頃養子になったBuya Hamkaの姓を頂いたという。本名のJosefもJusufに変えたようだ。 こうした慈善活動に年間20億の予算を立てているそうであるが、FPIの北ジャカルタ支部の活動にも手を指し伸ばしていると、80年代にMUIの教授となったBuya Hamkaは語った。  タイトルの付けるのに迷ったが、7-11がインドネシアの酒販売に反対されたという言い訳の理由がわかる気がした。 写真を選ぶのにも迷った。女優なら借用するが。。。

2020年5月19日 (火)

インドネシア高速道路の揺籃期

00jasamarga-tol-capek インドネシアの高速道路については4回もシリーズで紹介論文を書いたが、施工主については触れることがなかった。 それは国営の Jasa Margaの独断場であったろうことは周知の事であったからである。ジャカルタではあちこちにそのマークがあったからでもある。そしてインドネシア最初の高速は1978年のJagorawi高速の筈であるが、この年はPT Jasa Marga (Persero) Tbkの社史によるとこの会社の設立日である。小生の論文では工事着手は1973年となっており、完成を持って運営会社となったのであろう。当然この時代の建設は外資がやったに違いないが、基礎工事はスカルノ時代にさかのぼり、ある地区などJalan Rusiaと呼ばれたりしているそうだ。 日本の触手もあろうがその詮索は止めて社史に戻ると1987年迄のジャカルタ内環高速JIRRと東西の運用開始は 1984 – Jalan Tol Jakarta-Tangerang (西へ) 1985 – Jalan Tol Prof.Dr. Ir. Sedyatmo (空港へ) 1987 – Jalan Tol Cawang-Semanggi (内環南線) 1988 – Jalan Tol Jakarta-Cikampek(東へ) 1989 – Jalan Tol Semanggi-Grogol ~Pluit (内環 西北) であるが、 Jalan Tol Ir. Wiyoto Wiyono :15km 1987年~1990年 (19km Priok)(内環 東北) Jalan Tol Pelabuhan 湾岸  :13km 1992年 Pluit-Tanjung Priok utara.(内環北海岸) が出ていないことに気ずく。 そして1987年はBOTによる民間建設運用を開始した年である。その最初の会社がBUMNと民間が結成したコンソーシアムのCMNP (現在PT Citra Maga Nusaphala Persada Tbk:95年上場)であり、この二つの路線(合計32㎞)が建設運用したことになる。民間と言うのは、これこそスハルトの長女TututがPT. Citra Lamtoro Gung Persadaを率いて首班となったものでさる。このメンバーとしては; Hutama Karya 、Jaya Konstruksi、Indocement、Krakatau Steel、TASPEN、そしてCitra Lamtoro Gung Persadaなどであった。 当時は西ドイツ、日本、韓国の建設業者がコンペティターであったが、父スハルトの一言で踏み出したと述懐している。 Ir. Y.H.Simanjuntakが作り出したBetonパネル工法で、インドネシア独力でやることにしたということだ。そういえば空港高速の名前になっているSedijatmoも高架土台建設の特許を編み出し日本含め数十か国に技術輸出を為したことも思い出す。 現在Lamtoro Gungは一寸、不明であるが、CMNPは隆々たる企業ではあるも、小生にはスハルトの影を見出すことは出来なかった。

2020年5月16日 (土)

Batik Kerisはファミリー?

Batik-keris-cokro-aug-15-18 Denice Tjokrosaputroという美人に出会った。 この名前には記憶があり、すでにMichelle TjokrosaputroのBatik Krisと Hanson 不動産のBenny Tjokrosaputroでブログにしている。 そして今、手にしたネットの記事は 将にその通りのタイトル “Sejarah Keluarga Tjokrosaputro: Dari Batik Keris sampai PT Hanson”であるので, この女性の名前は出てないかと読み進んで見る。 Tjokrosaputro家のビジネスは、1920年にソロのノノンガン通りでバティック業をは始めた時に迄遡る。今の世代から言えば4代前のKwee Tiong Djingが手芸バティックの小さな工場を作ったのだが、彼は子供のひとりにKwee Som Tjokをもうけた。彼が後にKasom Tjokrosaputroと名乗ることとなった。そしてそれが1947年Gaitiniと共に歩いて来た重要なマイルストーンであった(1947年設立?)。1960年代に両親から正式にバティック工場の遺産を得たが、1966年、社会全体が危機的な時代で、彼は華人の相互援助組織(Baperki)へ寄付したこともある。 1965年以前、Baperkiは共産党に近いことで知られており、この組織が設立した教育機関は民衆の攻撃の的になったりしたが、それが現在のTrisakti大学である。 この記事は一人よがりのグジャグジャ感があり、オルデバルの時代、Kosomは社会での立ち位置とかにおいて不遇であったようだが、ビジネスは家族が進めていたようで後に、カソムの息子であるハンドコは、ビジネスの世界が成長しているため、ニュー・オーダー時代に生きたことに感謝の気持ちを感じていたとあり、Handokoがキーパーソンであったことが解る。1970年PT化した後、1974年、バティック・ケリスはソロにPTダン・リリスDan Lirisという繊維工場を設立し高級品として世界20カ国以上に製品を輸出することに成功、サリナーデパートに売り場を出しスハルトの奥さんの作品なども展示し、成功の頂きに上る頃、Kasomは豪州の病院で没した。 その後も長男?HandokoとHandimanが跡を継いだが、Handimanは2018年?に亡くなっている。彼らITBとフィラデルフィアでの学業を与えられた父に見習い、子供のBennyにはトリサクティ大学で金融を学ばせている。 以上がこの記事の全てであり、タイトルには似合わない(不十分)内容であった。 その後の調査を重ねて出来るだけファミリーを拾うとBennyの弟にTeddy Tjokrosaputroがおり、あのRimoデパートの社長でいまは業転しているようだが、又の楽しみにしておこう。 そしてDenise TjokrosaputroはHandimanの娘であり、先にブログでも紹介した妹?のMichelle Tjokrosaptroni負けない実業家である。これも又の楽しみにしておこう。 楽しみにしておこうというのは逃げ口上で実は、このファミリーはどういう切り口で調べても分かり切った部分のみが断片的に出てくるだけで綴りもKasomだったりKasoemだったり叔父にHandimanかHandiantoとかHardiantoが居たりで、家族の関係もなく、ファミリーの全体写真もなく、一人一人の写真である。 その上Benny氏は2.5兆もの国家未済問題で司直の手にあるようだ。 残念。写真はチョクロアミノト通りのBatik Kerisは未だあるかな。

2020年5月13日 (水)

サリナの新ビルとマックに黒幕

Sarinah ジャカルタ新聞が、サリナデパートが修復作業に入り、為にマクドナルドが閉鎖されるニュースを流していたが、小生はその件はNNAでも読んでおり、そちらの表現は30年の歴史に幕と言う表現であったので、これには大きな関心を向けざるを得なかった。その前にサリナは所有空き地を利用して高層ビル3棟を立てる計画があったが、日本に居てGoogle Mapを駆使しても建設の資材すら目に出来なく、他のニュースでも建設着手は遅れているのを確信したばかりであったためである。 ジャカルタ新聞には今のサリナの写真が出ており、それを見ると右手の奥のフランス大使館を隠すように黒壁の高いビルが建っており、堂々とSarinahと表示されているのを見て驚いてしまった。そしてその横に少し低いが2棟目のビルも同じ黒壁でみえるではないか。建設着手してない筈のビルが、この写真では建っている! 狐に積まれたような感じで、在ジャカルタのインドマルコの人達に聞いて、更に最近の画像を探して、最終納得できたのはこの黒い建物と見えたのはマクドナルドの前に建てられた黒い像であった。近くで見れば何かSarinah II についての説明の看板とか付されているのであろう。しかし小生にとっては今思うとマクドナルドを悼み黒い喪服を着たモニュメントのようだ。 マクドナルドがここに店を開き、大きなゴム製マックの人形が二階のテラスに揺れて、ジャカルタの名物になっていたのは、捗々しくないサリナが頭を下げマックに来ていただいたのは30年前だとすると1990年だから小生が2度目の来イした時である。サリナは1965年オープンだから25年目だ。そしてマックは2009年にも2年ほど休館したことがある。 このサリーナ II の計画は、2.8ヘクタール土地の面積に駐車場は地下に移した商業施設をつくるもので国営の建設会社PT Wijaya Karya (25%)と国営公社PT Pembangunan Perumahan (PP) が夫々25%と20%で参加するはずだ。MRTも遅れてはいるが完成の暁には、又 未だの首都の華として又栄えることを望みたい。

2020年5月 8日 (金)

BMKはChampでBakwan

サリナーデパートの地図を見ると多くのレストランがあることに気付く。昔からあるマクドナルドやケンタッキーは別として、Platinum Café(この前はManchesterか)の他、Champ Resto(この前はChilisか)、Gokana Ramen & Teppan や Raa Cha Suki & BBQなど聞いたこともないが旨そうだ。Excelso、BMK Karapitanも見える。レストランではないが、インドサットのOoredoo Outletなど豪華で広々、ゆったりの清潔感あふれる雰囲気である。日本のスマホショップなどとは、桁違いのサービスだ。ただ小生は日本からGoogleやマイ・アルバムから推定しているのであって、何が起こってもおかしくない時代、変わっていたら謝るしかない。 00champ-catalo_20200508115601少しPlatitumなど調べてみようと検索をかけている内にこれらの多くが PT Champという会社が保有していることが解った。調べる気になったのはあのHardRockが追い出た跡に居座っているので外資の何かかと思ったのであるが、そうではなくローカルの新進企業で、次のユニコーンになるのかも知れない。輩下のレストランは、繰り返しになるが、Platinum restoはIndonesia, Jepang, Amerika, Chinaなどの料理を供する店で全国約23店舗で、Gokana Ramen & Teppan(日本のラーメンで日本語の”豪華な”を名前にしている。既にこれだけで39店あるらしい。)Raa Cha Suki & BBQ、(タイ式か)、BMK(Bakso Malang Karapitan)そしてChopstickがある。 これらをスマホで出前注文も出来るサービスサービスをGobik(a one-stop 4-in-1 delivery)を行っている。だからこのレストランは4種類の日イ米中の料理を供しているのだ。 この会社は1997年バンドンで旗揚げしたようだが大手ではなく多分若者数名がやっているのではないだろうか、今IPOの準備をしているがオーナーの固有名詞は今は明かされていない。本社はこのサリナデパートの12階に置いている。 00bakwan-teebox_20200508115701 BMKのどんぶりで思い出したが2000年代にかけて良く食べに行ったWijayaのバクワンが懐かしい。確かスラバヤ名物でジャカルタでは珍しい時代だった。我慢できずGoogleの写真を借用した。 自分自身の写真は隣のTeeboxというRestCafeであるがこの左手の階下である。写真では見えないが2階もテラス式であった。どちらも絶対今もあると確信できるが。。00bakwan-teebox

2020年5月 6日 (水)

サリナ・デパート周りの今

00mar2010 タムリン通りのサリナデパートが、敷地を利用し高層ビルを建てる計画があったのを思い出し、Googgle で訪ねたが、建設の痕跡は見えなかった。昨年までは3月に着工するとか、20年には完工するとかの話は出ていたが、最後は土地問題があるようだ。 MRTの南北第2期も2024年頃出来、更にここが東西線との交差ともなるので非常に有利になる。あの建設は3棟も建てるようだが、それは減らしても、やり通してほしいものである。合弁の相手に国営建設の雄AdiKaryaと住宅公団 PPがあったが、PPは債務償還が出来なかったニュースもあったので少し心配だ。 サリナに行く序に関心があるのはヘロースパーマーケットであるが地下のフードコートと共にあったがスーパーは未だあるようだ。 マクドナルドを招致したのも早い段階だったが、これは今もある。KFCもあるようだ。 しかしあのHard Rock Caféは何故か無くなり、彼らは、Pacific Placeに移って今もあるようだ。その後はPlatinum Restoが入っている。写真では2010年頃、Manchesterto云う店になっていたが。 ワヒッドハシム側から見える所も Afterhourや Chilis 或いはChampなどのバー・レストの看板が時代と共に見えていた。 昔、スカイラインビルに事務所があったので、この地区は小生に取って、一番親しい地区である。Skylineの映画館のTemporary closedの意味はなんであろうか。 少なくともコロナが大きく黒い影を投げかけている事には間違いはないが。。。

2020年5月 1日 (金)

Intilandの全プロジェクト

ゴンドクスモ家のPT Intiland Development Tbkのプロジェクトは先週はSouth Quarterを紹介したが、他に57 Promenadeなど洒落た名前もあり、いまだ全リストを挙げてないこともあり筆を執った。その序に57 Promenade(Grand Indonesiaの裏手ワドック添い)を記述しようと思って場所を探ったら、もう既にマイ・ブログにアップしていたことに気が付いた。事ここに至っては全体紹介しかない。 Aeropolis(写真はいずれもAeroolis ネットより) 先ずはこれら職住商業の複合施設には、57 Promenade、South Quarter Domeの他にRegatta(Pantai Mutiara)、1 Park Avenue(Gandaria)、やSurabaya Graha Festival、Sumatra 36、などもある。 住宅地開発としてはSerenia Hills - West One City 、Pinang Residense、Talaga Bestari - Magnolia Residence – Maja、オフイスとしてはIntiland Tower(Jakarta & Surabaya)、Graha Pratama、 20200501-2特殊な倉庫・店舗・オフイス・アパートのAeropolis (S.Hatta飛行場そば)、工業団地管理にはMojokerto Ngoro Industrial Parkなど、ホテル運営には「Whiz Hotel」、「Whiz Prime Hotel」及び「Grand Whiz Hotel」及びゴルフスポーツなど幅広い。或いはダブるかも知れないがグループの本拠のスラバヤは以下がある。 - Intiland Tower - Praxis - Sumatra 36 - Spazio Tower - Graha Famili - Graha Golf - The Rosebay - Graha Natura - Darmo Harapan - Spazio - National Hospital 追記:上記South Quarter は先週のブログで間違ってSouth Squareと記述したが急遽一部修正した。(5/1)

2020年4月29日 (水)

SimatupangとKartiniのAvec道路

SimatupangとKartiniのAvec道路 Simatupang通り添いに東急不動産が開発したコンドミ2棟、ブランズ・シマトパンがたっている。 ブランズ・ブランドの2号目で、インドネシアで開発・設計・施工すべてを日系企業で推進する分譲マンション事業の最初で、建設も大林組が施工した。ネットで見る出来栄えは素晴らしくすぐに決めたくなる。 ブランズ・シマトパンと言う呼称ではあるが、住所はSimatupangでなくKartini(Jl. R.A.Kartini No.10, RT.10/RW.4, West Cilandak, Cilandak)である。 Jalan Kartiniはジャカルタ北のGn.Sahari通りの対岸地区に沢山あるので、注意が必要だ。 昔の小生のシマトゥパン通りの紹介文では“ジャカルタ南部を東西に走る(高速の)外環通りでポンドクインダーとパッサルミングー通りの間の長い通りで、真ん中の高速を挟んでパッサールミング方向へ向かう道がそれで反対側のポンドックインダーに向かう側の道はカルティニ通りと名付けられている。”としていた。 その後この道は高速の完成に併せ、東西に長く伸びているが、現在のGoogleでは道の方向(南側北側)の区別でなくFatmawati通りとの交差点から東がSimatupangで西がKartiniである。従いBranzの住所記載は正しいが、呼称が間違いと言えば間違いである。 この外環通りの高速の完成はつい2~3年前であるので、高速がなかった時代か、着手した時代はSimatupangと呼ぶのが一般的であったのではないかと思う。だから先にブログしたFIF TowerからPondok Indah交差点に至るまでの、Siloam 病院もMercure Hotelも Swiss Belinnホテルも呼称は全てSimatupangである。そしてその後Kartiniが付加されたかどうかだろう。 この二つの通りの東西は西はBintaro Pesanggrahanであり、東はTanjung Timur を超えてJagorawi高速の所までも伸びている。 00-jalan-simatupangここの部分の高速JORR完成後に走った高速の写真は、1時間探したがパソコンから紛失していた。 代わりにこの写真を掲げよう。これも、現物は消えているかも知れない。貴重品だ。    00semprot-tribunTribunJakartaのネットからはこの写真で、これもコロナであったが、消防車で消毒している所は、ある意味で東京都へのレッスンを含んでいるだろう。

2020年4月28日 (火)

FIFグループの全て HondaかAstraか

JGCビルのずっと先にSouth Quarter Domeがあったが JGCビルも目印にするとちょっと離れている。それより東急Branz Simatupangがある。これについてもブログにしたはずであるがそれが、SQの手前隣である。 00fif-group-dsc_0051-2先日の写真には写ってないが写っていたのは通り過ぎの隣にあるMenara FIF グループである。 FIFとは初めて聞く名前なので調べるとPT Federal International Finance (“FIFGROUP”)があった。Federalと言えばアストラ輩下の 本田モーターであるが、以降これはと思った点を羅列的に記録していくこととする。 * 該社は1989年にPT Mitrapusaka Artha Finance として設立された。財務省の認可を得て設立されたノンバンク用である。 * ノンバンクとはリースなどであるが当時5種類あり、インドネシア語が珍しくブログにしたかなと思うが、挙げるとSewa Guna Usaha, Anjak Piutang dan Pembiayaan Konsumenなどで、急激に多くが設立されていた記憶がある。 * 当該社は1991年に名前を.PT Federal International Financeに変更、1996年に本田二輪車の割賦販売にフォーカスした。 * 2013年にFIFGROUPブランドを打ち出しOJK認可の企業として多目的融資、投資金融業、運転資金融資、オペレーションリース、シャリアー金融を行っている。 * 多目的融資はエレクトロ機器から家電、家具、ライフスタイル、ガジェッド、その他必要資金の融資も扱う。 * 株主は99.99%、PT Astra International Tbkであるので、経営幹部の創業性は薄いが、念のため数名挙げる。 * 監査役会長;Suparno Dasmin 1986年IPB卒、社長 Margono Tanuwijaya;1990年Sudirman大卒、取締役 Hugen Gozali 1993年UI卒で大体卒業後アストラ入社の出世組かな  * FIFのペイジを見ていたらFIONAさんが現れて質問に答えるというので、上記の幹部の繋がりなど聞いて見たがちょっと無理があった。(こちらの能力に)Fionaさんと言うのはA1の人かなぁ 知り合いが出来た感じでロボットでないことを望む * 最後にFIFをGoogle Mapで検索するとジャカルタだけでも17ケ所も出てくる。しかし本社はここMenara FIFだろう。

2020年4月24日 (金)

サウス・クオーター・ドーム by インティ・ランド

MTRが右側通行かどうか、  日本に居て調べるときに; Google Mapで終点Lebak BulusからFatmawatiへなぞって行くそのSimatupang 通り沿いに巨大な新しい建造物の一角があった。 00south-square-google名前を探るとSouth Quarterという。その画像は記憶にもあり、Intilandの開発物件であることが解った。 小生がまだジャカルタに居た頃建設開始、2018年には第一期を完工していたらしい。新しいデザインを誇っているかも知れないが小生の好みではない。 しかし行けるならどこでもいいし、いつか、行けるかもしれないので予行散歩をしてみよう。 Simatupang添いの道で記憶にあるのはまずSovereign Plazaと言う大きな新しいオフイスビルである。ここをFatmawatiの方に向かうとその道が合流する所から道はKartiniと名前を変えそしてToyota Auto 2000のビルがありそのちょっと先がSouth Squareである。 ここを超えていくとPondok Indah通りが入って来る、或いはLebak Bulusに行く交差点でそこにPoins Squareというモールがある。 前述のSovereignの道越えにはCilandak Town Squareと言うからこの辺りのMallはSquareと名付けるのが好きらしい。 正式にはSouth Square Domeと名ずけられているが普通名詞を押し通している。ここにTown Oneを真ん中にTower AとBが左右を守っている図である。ここがIntilandがシンガポールの政府系不動産投資のGICと共同開発しているところで第2段階にはあと二つのコンドミを立てることになっていたがもう建っているだろう。 うらやましい限りだ。しかし 小生の家の近くには広大な空き地があるが、もう30年も何かやっている。多分ゴミ焼却地にしかならないようだ。 上流の橋の架橋には15年以上もかかったので、それもあきれてブログにしたことがある。 00jgc-indonesia-dsc_0691思い出してマイアルバムで写真を探していたらSovereign Plaze の次の隣にJGCの看板が出た高いオフイスビルがあること、またSouth Squareを過ぎた隣にFIF Groupの看板のあるビルがあった。昔この通りのどこかにあったサクラレストラン+ホテルはどこだったろうか。GIICに同じ名前のがあるが、成功して移ったのであることを確信している。 追記:上記South Squareは South Quarterの間違いであるのに気付き急遽一部修正した。(5/1)

2020年4月14日 (火)

Blah-Bla-Braからraba痴漢へ

昔、ジャカルタでN君が良く使っていたブラブラブラと言う言葉は、何となく、何何々と、同じような言葉や数字を正確に言うのを省いた言い方だとは感じていたが、英語Nativeから聞いたことがなかったので今日まで放置していた言葉であった。今日Nic先生が使っていたのをネットで偶々聞いたので、辞書をひくとBraBraBraではBHの数々しか出てこない、時間は弄したが翌日の今、どうもBlah-Blah-Blahなることを突き詰めた。 Blahとは低迷したというような意味もある。そしてそのインドネシア語が気になったが此方は下の例文と共にBla-bla-blaであると確信した。 Mereka ngomong bla bla bla lalu tawa mereka meledak, sementara aku bengong ... この意味は“彼らは、何とか何とか何とかとか言った後、大笑いしたので、ちょっとの間私は驚いた。。” 話はちょっと違うが、dirabarabaと言うのを見つけたが、これもそのNic先生の別のプログラムの中で受け身形英語 get gloped(痴漢される)から、glopeを辞書で確かめて見た際、見付けたものである。diraba-rabaのrabaは触るであり、Laba-labaは蜘蛛である。まだ居るのかな。 00labalaba2r00de-spin-laba2-2010

2020年4月13日 (月)

ジャカルタのJardine Mathesonの影

ジャーディン・マセソンと言えば、幕末、開港横浜の一番地に事務所を構えた英国の貿易商社で、土佐の竜馬が道をつけ、長崎のグラバー氏の商売の柱ともなり、薩長の武器輸入を支援したことなど有名であるが、その前の1840年の阿片戦争も阿片を取り扱っていた同商会が戦争の引き金になったりもした。多くの小説でも出てくるが、ジャカルタに赴任して最初の段階で、 00hsbc-kalibesar-2008この名前を聞いたのは当時世界のトップ銀行でもあった香港上海銀行HSBCの存在であり、戦前より同行の事務所としていたオランダ時代の記念的建物の存在であった。  このカリブサールの建物群がこのブログを始めた動機となった素材である。それが現在も生き続けている世界有数のコングロマリットのひとつであり、次にそれを感じたのはアストラの挫折を受けて立った企業の存在であった。そして今一度調べてみるとスーパー・ヘローの受け皿もそうであり、多分タムリンの名門マンダリン・ホテルもそうだろうと思う。 00wtc-aug-15-12 念の為Jardine MathesonでGoogle Mapで見るとHSBCのあるWorld Trade Center(WTC)に PT. Jardine Lyoed Thompsonという会社があった。これもJardineの子会社である。このWTCがJardineのジャカルタの本拠になるものと思うがカリブサールのHSBCの両隣がシナール・マスのシナール銀行とBIIであったが、シナールマスのトレードセンターはITC(Interntional TC)ゆえ関係はなかろう。所で肝心のHSBCは創業者が別であり、Jadine Mathesonはその大口利用の顧客第1番であったであろうということだ。 wikiには“ジャーディン・マセソンなどが香港で稼いだ資金をイギリス本国に送金するために設立された銀行である。”と記している。尚現在はシンガポールに上場を移している。

2020年4月 9日 (木)

ウィキペディアのAPRAとAndiAZIZ

短いインドネシア連邦共和国時代に起こったAPRA事件とAndi Aziz事件は相次いで起こった似たような事件であるので混乱するが、この二つの事件(Peristiwa)はそれぞれ、Wikipediaに 解説があるのでそのまま要約しておこう。 APRA (Angkatan Perang Ratu Adil)とはインドネシア国家革命の間に設立された親オランダの民兵による軍隊である。この軍団は、1949年1月9日に統一デポ・スペシャル・トロエペン(KNIL特殊部隊基地)から復員した元DSTキャプテンのKNILレイモンド・ウェスターリングによって設立されたものである。軍団の名前は、トルコ系の「ラトゥ・アディル」の到来を予測したジャヤバヤの古代ジャワ語預言書の一部に由来する。 トルコの血を引くWesterlingは、自らを、インドネシアの人々を「専制政治」から解放する「ラトゥ・アディル:公正の女神」であると称したものである。ウェスターリングは、ジャワの人々が支配している、スカルノとハッタが率いる統一インドネシア共和国に反対し インドネシアにおける連邦国家の存在を守ろうとしたものでAPRAは、元共和党ゲリラ、ダルル・イスラム、アンボン、マレー、ミナハサ、復員KNIL、連隊専門部隊(KNIL特殊部隊連隊)、オランダ陸軍を含む18の多様な反共和党派からリクルートされ、1950年には、APRAは一連の農村自衛の一群から2,000人の兵員を擁する戦闘力に進化している。 スカルノの治世の影響力の増大に不満を持つウェスターリングは、ポンティアナックの連邦主義者スルタン・ハミド2世と共謀して1950年1月にクーデターを起こした。1950年1月23日、APRAは共和党政府に対するクーデターを開始した。彼らはバンドンを一時的に占領することができたが、ジャカルタとブロラを占領することができなかった。彼らはRIS内閣を打倒し、スルタン・ハミンクブオノ9世の国防相やアリ・ブディアルジョ官房長官を含む著名な共和党議員を暗殺する計画を立てていた。 このクーデターの失敗は、ウェスターリングの民兵組織の破壊につながり、彼はオランダへの逃亡を余儀なくされた。強力な指導者がいなくなり、APRAはついに1950年2月に機能を停止した。APRAの行動は最終的にスルタン・ハミド2世の拘束につながり、1950年8月17日にインドネシア共和国連邦の解散を加速させ、ジャカルタの中央政府が支配する統一国家に一変した。以上正式にはAPRAクーデター事件Peristiwa kudeta Angkatan Perang Ratu Adilと言われる。              Peristiwa Andi Azis(アンディ・アジス事件)は、東インドネシア国の存在を守ろうとし、インドネシア共和国の統一国家に戻ることに消極的な元KNIL幹部のアンディ・アジスによる反抗活動である。 アンディ・アジス自身、元KNIL将校で、APRISの将校に受け入れられその就任式は、東インドネシアの国軍司令官Ahmad Yunus Mokoginta,中尉によって取り行われていたものである。 アンディ・アジスは新しい政府のAPRIS(ABRI)の将校達は元KNILのメンバーが多いし、従い東インドネシアの領土の治安妨害に責任を負わなければならないと主張し行動に移したものである。 彼はAPRISから元KNIL兵士を分離移動させ、APRISの本部を攻撃し、モコギンタ中尉を含む多数のAPRIS将校を人質にした。 マカッサルを支配した後、彼は東インドネシアの状態を保存すべきであると主張したが、政府は、1950年4月8日、最後通告を行い、アンディ・アジスにすぐにジャカルタに出頭するよう命じた。最後通告を守らない場合、海軍ハン・トゥア号でマカッサルの街を爆撃すると予告し又、4 x 24時間以内に釈明することを要求したが、期限を無視された後、政府はアレックス・カウィララン大佐の下に軍隊を派遣した。そしてついに1950年4月15日、アンディ・アジスは、逮捕はされないというスリ・スルタン・ハメンクブワナとの約束のもと、ジャカルタに来たが、アンディ・アジスがジャカルタに来るや彼はすぐに逮捕された。 (wikiではこの後戦闘と言う項目で以下が付け加えられている。) この活動(編者注:その後の小活動か?)は、KNILによって妨害されたAPRISが、挑発し、結果衝突したAPRIS軍の活動から始まった。 1950年8月5日に第2戦闘が勃発したがAPRISが陸軍、海軍、空軍からすべての部隊を配備することにより首尾よく征服することが出来た。 June-001-2Ratu Adilは抗オランダのディポネゴロを守ったはずだが。。

2020年4月 7日 (火)

3人の英雄Adisucipto-Adisumarno-Abdulrahmanの綴り

インドネシアの独立戦乱のネットから何となく引っかかりファイルしていた文書にDakota VTというのがあり3つのAの英雄名が出ていた。 小生の英雄道路シリーズに登場させたはずだと、調査の手始めにAdisuciptoを調べると、どこにもない。綴り間違いを直し、次のAdisumarmoにも移って、始めてこれらの名前はジャカルタには無く、小生が集めた国内空港リストにあることが解った。しかし後一人の名前Abdulrahman Salehの名前がリストアップされてなく、又マイブログで検索をかけるが、これがまた出てこない。Abdulには大統領のWahidや、スカルノ・デモで斃れたHakimが居たし、SalehにはRaden SalehやChairul Saleh迄よぎってくるが極め付きはAbdulrahmanのRachmanにはRahmanの綴りもあり、又AbdulとRahmanを区切るものなどめちゃめちゃになったが更なる極め付きはこの人の名前はDr.が付いているので、兵士の時代に英雄視されたが、長じてはインドネシア大学の医学博士など教授になったのだろうと思ったが、思い当ってこの3人は兵士の時代にこのダコダ機墜落で名誉の戦死を遂げていることに唖然とした。結論を急ぐと:過ってのマイブログで紹介できないのでマイ小冊子から以下を拾う。 Dr.Abdul Rachman Saleh(1909年~1949年) ジャカルタ生まれ。オランダ系のMULOからマランのAMSを卒業後ジャカルタ医科専門学校で医師となりインドネシアの生理学に貢献した。後年インドネシア大学は「インドネシア生理学の父」なる称号を与えた。日本占領中はラジオ放送で世界にインドネシアのニュースを流した。1946年マディウンの空軍司令官に任じられ、航空術やラジオの学校を設立した。1947年アディスチプタと共にインドへ出張、帰りの飛行機がジョグジャに着地するときにオランダの航空機に射撃され、インド赤十字から入手した薬品と共に消失、彼もこの事件で死亡。1974年国家英雄となる。ここの通りには民族覚醒博物館(Museum Kebankitan Nasional)がある。訪問した2006年11月のある日、入り口には誰もおらず、大きな中庭を長屋的な教室が囲んでいるが、訪問者もなく閑散としていた。 以上補充するとせば、 * Abdulrahman SalehとAdisuciptoは英雄叙勲があったが、Adisumarmoはリストにはない。 昔からの印象だがインドネシアはこのリストの正式なものがなくまちまちである。小生のリストは2019年で188人である。 00kebangkitan-14-4* Jakarta市内の道路名になったのは上記のStoviaの民族覚醒記念館の前の道にあるDr.Abdul Rahman Salehだけで、Aisuciptoがバンドンにはある。 * 空港リストにない事はGoogleで発見したもので、Google Mapには、それはMalangにある事が解った。漏れの理由は小生のリストが国際空港だけであったからである。しかしGoogleではRachmanと綴っている。後の二人はAdi SuciptoがYogjakartaであり、Adi SumarmoがSoloである。 * Abdul Rahman Salehと同一名の検事総長がユドヨノ時代に居たことはマイブログでも出てきている。スハルト訴追関連であった。 * マイブログであと一つ“最高に混乱したインドネシア英雄ブログ”というのを書いていたことに気付きびっくりしたが、それはジャカルタ市長の父親 Abdurrahman Baswedanである。 * Abdulrahman とAbdulrachmanの綴り違い程度ではどれだけの違いがあるのかは知らないが、日常では気にしない問題だと思う。上記小冊子の記述は簡潔でいながら全てを正しく記述している。若い時代を思い出した。

2020年4月 6日 (月)

ウエスターリング、締めれば戦争論か

ウエスターリングのフルネームはRaymond Pierre Paul Westerlingで1919年8月31日にトルコでギリシャ人の母親とオランダ人の父親との息子として生まれている。 彼がオランダにやってくる前、彼はイスタンブールでオランダ軍に志願し、軍命令でイギリスで訓練を受けその後インドやセイロンで特殊技量の技官分野で働き、戦線に出ることもなく1945年9月になってメダンにKNILの将校として派遣されてきたのである。彼の訓練の範囲には非武装戦闘やサイレント殺人、ジャングル戦闘などがあった。 その頃インドネシアは独立宣言後緊張と混沌の中にあり、彼は防諜・警察ネットワークを組織しTerakanと呼ばれたギャング団を不正規手段により排除するなど有名であった。 Jakartaで親オランダや混血のインドネシア兵などを入れたデポ特殊部隊DSTの司令官となり、南セレベスの征定を命じられたのである。当時スラウエシのオランダはKNIL駐屯軍含め、崩壊直前であり、ジャワ出身の戦闘員が紅白旗の下、地元民テロに加わり、オランダ人や新オランダ中国人などが攻撃されていた。この征定はウエスターリング法といわれるやり方で、入手情報により疑いのある村は夜に包囲し、明け方から女子供を分け、テロ兵士をさらけ出させ、オペを行う方法であった。その後、コーランに宣誓させた村の指導者と警察部隊を組織化したと言う。 インドネシア当局はウェスターリングが約4万人の死者を出した責任があると主張しているが、ナッシールも当時プロパガンダがあったこと暗示しているし、オランの歴史家も、ウエスタリングによるものは400人であり、その後の引き継いだ2代の司令官が1,500人ずつという話をもある。この作戦は1946年12月に始まり、1947年2月迄続いた一連のもので、この時、南スラウエシ人民抵抗軍(ラスカル:LAPRIS)を結成しゲリラ戦で戦ったW.Mongisidiは逮捕され死刑となっている。一応、オランダ政府の公式的調査や一部の賠償もされている模様だ。ハーグ円卓会議の条約では戦時中の事件に対する特に政府命令による作戦の罪は問わないこととされているようである。 ウエスターリング自身は戦後オランダに帰国、インドネシア系フランス人の妻と定住し後に離婚・アムス移転し、最後は1987年に病没している。 4万人もの虐殺など、小生も今冷静に考えればあり得ない数字であったが、日本軍のポンチアナク虐殺事件もあった事からこの事件には飛びついた反省がある。上記記述も一つの報道資料の抜き書きであり、最後の締め方が解らない。なにせこの事件関連では 再々再々2 回もマイブログで触れているが毎回一言では締めきれなかったものである。 4万人がらみの過去の記述やニュアンスは事実化し過ぎであったことなどを謝るためのブログである。メナドにモンギンシディの記念像があった。片方にPierreとあったので驚いたがPierre違いのG30Sの犠牲者Tendean大尉であった。 Tendean-dan-monginsidi

2020年4月 4日 (土)

懐かしマヤンサリの唄

久しぶりにバンバン氏のニュースがあった。3月31日のKompas Grammediaが発信するサイトGidhotのCeleberityのペイジで、タイトルもNyaris Makan Roti Isi Cicakとセンセーショナルなものであった。ニュースに飛びついたものの実際は意味が解らず、よく読むと夫人のMayangsariが発した言葉で“危うく やもり入りのパンを食べるところだったわ”というものであった。 Maynagsari-bambang-trihatmo-2仕方なく続きを読むと、彼女はそう言ってまた眠るから後で起こしてと母親に捨てるように言いつけ不満をバラまいた。彼女は2000年始め、バンバン・トリハトモジョとの浮気の末に2度の結婚をしたことが伝えられており、実際その時、バンバン・トリハトモジョは離婚しておらず、ハリマの夫としての地位を持っていたようだ。この結婚でKhirani Siti Hartina Trihatmodjo.と名付けられた娘が生まれており、Halimahとの息子Panji Trihatomodjoはマヤンサリを殴りたくなったろうが、Halimahとの離婚は2010年に成立した。そしてマヤンサリとの結婚も2011年7月頃宗教法と州法の両方の点からも正式に結婚になっている。 というだけの記事であった。 二人のニュースはワンサカあり、幸せそのものだ。 マヤンサリと言えば、当時のインドネシアトップ・ポップ歌手のひとりで小生のNostalgia Song listに“Tiada lagi”というのが記録されていた。念のためYoutubeで検索すると、コレクションもありHarus Malam Iniも流行った歌だった。 Maynagsari-bambang-trihatmo-1

2020年3月31日 (火)

バロンサリのRawa Gude 英雄墓地

バロンサリ村で 1947 年 12 月に起きた住民虐殺に対するオランダの謝罪についてのニュースを見て、このバロンサリを調べようとして、この検索に大分時間を浪費した。 00baron-sari-home-stay-jogja最初Google Mapで調べると Baronsariではジョグジャカルタの南の地名(Baron Beachの民宿が出てくるし、スペルを直してみたりして、苦労してBalong Sariを引くとSurabayaやJombangなど各地にあるようでその中のKarawangを引くと地域が表示される。00-monumen-rawagedeこれは村の名前であることは想像ついたがこの村の線で囲まれた領域を拡大するとその中にRawagede Monumentというが出て来た。 有名なラワグデであることに気付いたが遊園地みたいな場所であるので村の地図に戻ると、00-rawagede-mahkam少し離れてMakam Pahlawan Rawagedeというのがあり、将にこれこそラワグデの虐殺事件の犠牲者の墓群である。その事件は確かブカシで1947年12月19日に起こったオランダ軍の住民483名の虐殺処刑事件で、その墓地であることも看板の表示から確認できた。 00-rawagede-tirta-pitu-kolam近くに立派な遊園プールもありこの3ケ所がセットものの様だ。一度来てみる価値のある場所である。 ニュースのバロンサリとこのRawagedeが一致したのであるが、それならこの事件のオランダの謝罪は2012年にオランダ大使を通じたオランダ政府の公的謝罪を行っており、犠牲者の全員に賠償金も支払われ、済んでおり、小生もその時このブログで“ブカシの英雄NoerとChairil”として記述している。 小生がこの事件を知ったのはモナスのハイルル・アンワールの胸像からであり、この事件を扱ったハイルルの詩についても“ハイリル・アンワルのKarawang-Bekasi叫びの勝利”としてブログ化している。 冒頭のオランダ国王(ウイレム・アレキサンダー王)の謝罪は、何もこの事件だけを謝罪したものでなく独立宣言後のオランダの行動での暴虐(Kekerasan)の全てを謝罪したものの如しである。最大の虐殺はウエスタリング事件であるが、4万とも言われる犠牲者への贖罪はどう行われたのであろうか、又調べてみよう。 写真は全部Google Mapからである。 謝意はどう行えば良いだろうか。

2020年3月27日 (金)

Robert Yapari /Trivioの成功

大和ハウスとJOINが現地Trivioグループと手掛けたプロジェクトは小生はCipayungの名前でいいではないかと言ったが結局ありふれたサクラ(ガーデンシティ)となった。 00pgc-trivo現地パートナーはTRIVO社(PT. Trivo Orion Properti)という新進・中堅のデベロッパーで既にCililitan や Cikarangに住宅ブロックを開発しており社長Mr Robert Yapariはまだ若く2004年にCililitanの古い?問題のある商業施設Pusat Grosir Cililitanの活性化を担当し多くを学んだことから次がCikarangでターミナルから出発した商業ブロックSentra Grosir Cikarangを販売して、最近では Tangerang City(TanCity:10ha、Cikokol)と言う商業・住宅スーパーブロック(モール、ホテル...)を開発し成功している。 彼は、マカサール生まれで、8人兄弟の7番目で家計が苦しく、9歳の学童期にはもう市場で布売りなどをしていた。義務教育すら受けることも出来ず10年の仕事の後、1979年兄に続いてジャカルタへ運命を切った。1980年代夫人とやって来たPT. Buana Talimas Textileという会社が今この跳躍の基礎となったと述解している。 00pgc上記のPGCの仕事を得たのは2004年であるがTRIVIOを設立したのは2007年で友人の Ian WisanとCalvin Lukmantaraと3人で出来たものである。偶々PGCの仕事を通じて息があったのであろうかそれぞれの経験はIanは銀行関係を背景に持ち、Calvinはペンキやパイプの業を行って来た。彼の成功は彼の言葉で言えば、良き意思niat baik と 誠実さ kejujuranだという。 このプロジェクトは2017年7月に「快適か CipayungのTrivo大和ハウス」としてブログしたが、もう少しは出来上がっている事だろう。面積12haに5,000戸、日本側が60%シェアーで総投資はいくらか、土地はいつ、手当てできたか不明である。 PGCの写真をgoogleで拾って来た。懐かしいOld Fashionである。DubaiのMallとはくらうべくもないが。

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