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2019年5月

2019年5月31日 (金)

Gara2 Sakit その 2

 

昨日のCurhat Gara2 SakitでSakit(病気)はCurhat(インドネシア語の打ち明け話)とは関係ないので削除したが、少しは関係はあるようだ。つまりインドネシア語の索引ではパソコンの翻訳能力に問題があり、或いはそういう過程で検索したり、作文する小生の言語能力に問題があるとして昨日の病院の話を書いていたのであった。

昨日はCOPDの診察でCOPDの発作的現象で、少しの動作で息切れが前より激しくなった気がするというような表現をした所、いきなり小生にとっては生まれて初の車イスに乗せられ検査室に直行され心電図検査、酸素検査、レントガン、血液検査をされ更に心エコーとホルダー数の検査予約までされてしまったのであるが、物事の進展にあ然として思い付くのは小生の言語力が問題だったのかとも反省したのであった。

この発作と言いう言葉も、或る同病の友人が使ったことがあり、そういうことなのかとゾットしたことがあり、昨日はすぐに思い出せず従い使ってはいない。家ならパソコンがありこのような発作と言う表現はどのような類語があるか使い慣れたGoogleで見ると、息切れ・動悸、増悪、ふらつき、失神、喘鳴迄ある。

其処まで行かぬとも昨日のブログには車椅子をキャーリーと表現した上、今日病院で手押し車と言った言葉を訂正される始末である。しかし今でもあれは椅子かなと不思議である。

昨日に戻り、病院では心不全とか不整脈の言葉が出てきて、手前はきょとんとするばかりであったが、最後病院の請求書を貰う段階で、血液検査結果表が添付してあり、今日しげしげと見ることが出来たわけだ。そして血液検査結果表の最後の行に見慣れぬBNP(ヒト脳性ナ:端切れ状態:が100と言うのを見つけ、初めて病院の意図を自ら発見したのであった。それが今日も再度病院に行くことになった切っ掛けであるが、今日は見知らぬ病院スタッフに“家族と一緒ですか”と聞かれる始末である。

この病院は小生が関与したコンサルタント会社IMSと同じ名前であるが、患者に聞くばかりで、根拠や処置の流れの説明はなく、質問に答えることはなくあれよあれよと進める病院である。お陰で

種々関連医療の専門用語をネットで勉強する機会を得ることができた。COPDだけに抗して来た人生に変節も訪れることを思い当たる。

2019年5月29日 (水)

Curhat gara2 sakit

Maxresdefault

インドネシアのRinggoさんという人に関連する記事に'Curhat' Rindu karena Ditinggal Istri dan Anak, Foto Postingan Ringgo Ini Bikin Ngakakと言うタイトルが付けられたものがあったがこの文章にはいくつも厄介なインドネシア語がある。これをパソコンの翻訳ソフトで翻訳させると一つは

「彼の妻と子に取り残されているために 'Confide'ミス、この着メロ投稿の写真は彼を笑わせました」あと一つ試すと

「「Curhat Rindu は妻と息子に置き去りにされているので、Ringgo の写真を作って Ngakak」と言う具合で翻訳をGive-Upしているととしか言えない。二つで合っているのはditinggalだけでこれは後ろに来たのが主格で前が受け身の格になる。Ngakakを単独で引くと「仲間」と出ているが本当はジャワ語でゲラゲラ笑うと言う意味であり、Rinduは誰でも知っている単語で恋い慕うの意味で英語ではI miss youであるがこのソフトは対応できてなくミステークのままである。問題はCurhatである。ここではconfideと秘密の意味の大元の英語のまま出ている。秘密にするではなく秘密を明かすの意味もちゃんと辞書にはある。実際はもっと柔らかく打ち明けるとか相談するの意味である。Curhatは単語的にはCurahan Hatiで将に“本心を明かす”と言う意味である。

AI時代になり翻訳・通訳を簡単に考える日本人は多いが、その日本語こそ一筋縄で行けない言葉である。 そしてインドネシア語も日本人が言うほどやさしい言語ではない。

Curhatは単語的にはCurahan Hatiで将に“本心を明かす”と言う意味である。昔何かのインドネシアポップスで出会い、今日まで何度も人に意味を”聞いては忘れ”をして来たので今日ブログで書き残すのである。そのポップスを探したが見つからず代わりにDangdutを見つけた。それはHesty Klepek Klepek のCuri Curi Curhat(CCC)で歌詞の一部は

 

Hesty

Bila A A A Aku curi teman Curhat

Gara gara kamu cuek cuekin aku

Aku mulai BT dan curi curi curhat

Tenang saja aku takkan selingkuh

Aku hanya ingin curahkan isi hati

 

追:gara2 sakitの分はインドネシア語とは関係ないため削除する。別途正しく問題を把握したい。

 

2019年5月24日 (金)

ジャカルタ動乱(続き)の現場

 

Waspadai tempat Huruhara Djakarta

2010jan30obama-veteran-thamrin-sudirman-  

Jakarta動乱で又ジャカルタが血煙を上げている。ジャカルタ新聞の日本人記者の方の勇気ある報道でこの動乱の現場で何が起こっているかを写真とともに知り、その事実に驚愕している。最初の日の数時間で7人が死亡したそうでまずは冥福を祈るほかないが、ジャカルタ動乱と言うのはスハルト退陣となった1998年の動乱をいい、その時の最初の悲劇は4人の学生が死亡したトリサクティの悲劇であった。その動乱の切っ掛けは体制側の仕業であるとの一般的な受け入れがある中、結局だれが画策したのかは不明のままである。それは将にその事件日の5月14日にこのブログで取り上げて「堂々と大統領選に出たプラボオも未だ完全な嫌疑は消えてないのであろか。」と締めたように完全に完了してなかったことが今回の大悲劇につながったように思われる。  

連れとなったウノ候補もここまでは読み切れなかったのであろうか。

Dsc_0184-2  小生は既に読んでいたというか昨日の現場の選挙管理事務所のビルを何年かに渡って撮っていたのでその内2枚を挙げておこう。

追加:この前のトリサクティの悲劇の記念碑をアップしておこう。

 Tragedy-trisakti

2019年5月21日 (火)

BellezzaとBellagio その2

BellezzaとBellagio 

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不動産開発会社のGapura Primaの決算発表があり、2018年の純利益372億ルピアの11%を配当に回すというもので、小生は又、新たに不動産デヴェロッパーのニューフェースが現れたのかと思い、半日も掛かって調べたあと、最も信ずべき情報は自分の2012年(5月15日)のブログにありそれは「BellezzaとBellagio」と言うものでBellezzaはPermata hijauにありBellagioはMega Keninganにある高級感のある複合ショッピングプラザでGapura Prima社が保有している姉妹プラザであるとちゃんと記していたのだ。 そして二つとも見学しちゃんと寿司屋と日本料理店を利用しているのだ

http://jakartan.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/bellezzabellagi.html

以下は今日半日で得た情報を序に補足しておく。

GP社は正式にはPT. PERDANA GAPURA PRIMA.Tbkという上場会社であって、別のニュースによると2016年にForbes誌でtop 50 Best Performing Listed Companies in Indonesiaとして表彰されている。ところがこの会社のホームページはヒットせず辛うじて別の会社のペイジにこの会社のFinancial Reportがありダウンロードをクリックしても、ダウンロードは成功しなかったり、何かはっきりしない会社と言う印象が強い。 色々サイトがあるが小生が決めつけたこの二つが姉妹プラザだと再確認できるサイトには行きあたらず例えば不動産仲介会社のRukamenが挙げた同グループのプロジェクト・リストは以下の様で二つの内一つはあった。

Bellevue Place :Apartemen(MT. Haryono Kav. 21, Tebet、KAOの向かい)

Bailey's Lagoon:(Tangerang)

Bogor Icon:Apartemen Bogor ( Bukit Cimanggu City)

Bhuvana:Apartemen (Bogor)

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Bellagio:Lifestyle Mall & Office Park (Mega Kuningan)

Great Western Resort:Apartemen (Seprong) 

GP Plaza:Apartemen (Slippi)

MT Haryono Square:Mixed use  

このグループは、Gunarso Susanto Margonoが 1980年代に起こした事業で今まで30プロジェクトがあるとの情報はあったので他にもあるはずだ。

Bisnis.com などでApartemen Tower MontblancやTower Costello、BTC City、Bekasi Timurなど断片的には掴み得る。ここで果たしてGapuraはブカシの高速添いで最近プラザを作った会社ではないかと思ったがそれはブログでMetlandを紹介していた。

 

Btccity-montblancBTCはそこより先のMitra病院のすぐまた先のGTを出た近くである。

所で今のグループはG.S.Margonoの一人息子のRudy Margono が率いているが1970年生まれタルマネガラ大学後コロラドの大学にも留学している。こちらを紹介したサイトにはBellezia in Permata Hijauがでているがちょっと綴りは違う。会社の上場名はGPRAだが、どうしても会社のホームペイジは現れない。このパソコンだけだろうか。

追加:2021年6月26日 何とかAnnual Reportに辿り着いた。但し2019年版である。 そこに紹介のある物件はGP Plaza, Slipi The Belleza Permata Hijau Great Western Resort Serpong Kebagusan City Jakarta Bukit Cimanggu City Anyer Pallazo Cilegon,Taman Raya Cilegon, Metro Cilegon, Bellevue Place, MT Haryono Bhuvana Ciawi Alhambra Pakuan, Green Leaf Residence Tangerang, Spring Garden Residence – Bekasi, 8 Residence - Bantar Gebang The Crown (West Town) Cengkareng である。 上のブログに上げたMT Haryono Square Tower Montblanc,Tower Costello、BTC City,Bailey's Lagoonは会社サイトARには見つけられなかったが、名前が異なるものかもしれない。 サイトには保有会社名が出ているが、これが子会社なのか、IDNFのペイジを見ると2社しか記載がなかったが、ARを見ると2社のみでなく多くの子会社が有ることがわかった。IDNFがすべてではないのだ。 Bellagioは記載がないが、こち太はMegapolitanである。多分幾分かの協力参加したのであろうか。 尚、検索作業時に”Founder Gapuraprima Group Gunarso S. Margono wafat, ini ...”を見かけた。RIPを祈りたい。

2019年5月16日 (木)

jakartan.cocolog-nifty.com/blog/

http://jakartan.cocolog-nifty.com/blog/ja

https://nishimikyohei.hatenablog.com/

 

このブログにはリンクが張れないのかな

2019年5月14日 (火)

トリサクティ悲劇の画策者

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今日はスハルト退陣となったジャカルタ動乱の日であった。何となく開いたIDNタイムスにヘッドラインが“98年の活動家の証言で見るウイラントとプラボオのリアクション”と言う記事があったのでそれを掻い摘んでみる。

IDNの取材で証言するのは当時のトリサクティ大学の自治会(senat)の長で現在は98年同胞団(Paperti)の会長のヘンドロ氏である。

まずはこの動乱の壮大な劇は裏側に凄い頭の良いものが仕組んだとものとの断定で最初の学生への射撃命令を発したものであり、それは又警察や陸軍等の下級将校ではなく国軍の4星将軍であるはずだということだ。その上射撃はゴゴ5時から夜9時まで停止しなかったとも証言する。

二人とも大将でありその一人のプラボオは戦略予備軍司令官(Pangkostrad)を解任され、1999年になってやっと 国会のPANSUSの聴聞に応じたが、その時ヘンドロ達はプラボヲの家族とも会うことが出来た。彼はだれが撃ったかについて答えはなく彼の眼には涙があった  

Pansusが召喚した者に、あと、Timur Pradopoが居たが彼はジャカルタ西警察署長で彼はヘンドロに記憶を呼び覚させてくれた。

トリサクティ大学の15,000人の学生が国会に集まる途上警察のバリケードに阻止されていた。従い集団は10時に出発し国会へのロングマーチを開始し夕方5時にTimorとネゴを開始したが5時半になっても埒があかず我々は破壊行動に出たことを思い出させた。トリサクティを警戒する治安維持の職務からTimurは、何度もその後処理を聴取されるためPansusから召喚された。

彼と会ったとき彼は寂しそうに見えた。本当に彼は私に“これはあなたと私の問題ではなくそれは民族の歴史の進展の問題だとよ”と言うだけであった。

私は彼の警察でのキャリアについて考えたことはないが彼は誰が命令したかを言い残した。それは端っこは同じだ(ujung-ujungnya sama)と言い顔をなぜて口をつぐんだ。

2003年になってウイラントは政党を創設するために意欲を見せ我々は彼の自宅に呼ばれたことがあった。ヘンドロはそのHanura党(人民良心党)として知られる党への参加を誘われた。

時刻は朝の7時であったが彼に計画を聞くと大統領になるためと答えたので“その前に色々知りたいことがある、だれが私の友人達を撃ったのだと聞いた。彼はすぐ真剣になり、自分の利用する政敵は多いので大統領になる積りはないといった。ヘンドロはそういうことだから政党に参加する積りもないしそれでわかるだろう、彼は誰が居たかを知っていたのだよと言った。

解かりにくく書かれているので要領を得ないが、ついこの間、堂々と大統領選に出たプラボオも未だ完全な嫌疑は消えてないのであろか。

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2019年5月13日 (月)

タムリン道路の時計塔

Tugu Jam Thamrin  

Sinpangtugujam ジャカルタのメインロード、タムリン通りに立つTugu Jam Thamrinと言うのが目についた。タムリン時計塔であるが、日本語の塔の通りのTuguには何か記念碑みたいなニュアンスが加わる。ジャカルタには記念塔が溢れており、この紹介文として小生は「独立記念塔徹底的研究」やオランダ遺蹟の記念塔などを記し66ケ所を確認したことがある。その時その種別としてMonumenは歴史の事象を芸術的に残す記念塔であり、Patungは人物像、Tuguは若干芸術性は低い記念碑と区分できそうだとしておいた。

今これらの記念碑この時計塔を加えるべきか迷ったがこうした時計塔は各地にあるのでジャカルタではこのメインロードのタムリン通りに、そしてその真ん中で昔であれば交通警察官が建つ場所に立っているところを心に銘じることでタムリン通りの成り立ちについて記述しよう。

戦後、クバヨランバルの住宅地が開発されてくる段階で独立記念広場とクバヨランを結ぶタムリンースディルマンの交通路が企画され、そしてタムリンが着工されたのは1949年である。

Tugu-thamrin その後2010年頃かタムリン像が建った(マイブログ特集アップ済)ためタムリンの北端はこの独立記念広場或いは中銀の場所であることは自信があったがスデイルマン通りにバトンタッチする南端は確認できていなかったのでそれについて調べた結果をいくつか挙げておこう。

その前に南端と思われていたGrand Indonesiaモールの住所がThamrin No.1 であることみてやはりここが南端であったのかと一度は確信した事があった。

そして次にGoogle MapSudirman通りをなぞってみるとMapに南から Dukuh Atasの運河や鉄道を超えやって来る道にいくつもSudirumanと表示され、それはGrand Indonesia(HI)roundaboutUターンするところまで記載があったのでこの確信はいよいよ強まった。

今日、又そのおさらいをしたのであるがあにはからやGrand Indonesiaより南のBCAや更に南のUOB及びUOBの向かいのドイツ大使館の住所を確かめるとここもThamrin 1である。

UOBは昔カルチカプラザと言うホテルがあり、そこから南のタムリンが高架になる部分は両サイド、ブローラ通りとかの道が並行しているので大通りに面するビルはなくそれらの住所から道路名を確認するすべがない。

00sudirman-2009

しかしこの運河の南のビル(BNILandmark)の住所がどちらもSudirmanNo.1Kav)でありそこにスディルマン将軍像がたっているので、少し譲って駅名が最近Sudirmanに代わった運河駅の当たりまでをスデルマンとするのが正解であろう。

このタムリン道路が出来るまではメンテンに行くには旧サバン通りが利用されタムリンの北のクブンシリー辺りはGang Timboelと言う小道があったそうだ。

 

 

 

 

Tugu-jam-thamrin2011 そうだ!。この時計塔が建つ交差点はこのクブンシリー交差点である。タムリンの完工は1953年であるのでこの時計塔もこの時代のものかも知れない。 何かあると不審に思う点はこの交差点の右側(現在BKK Ban)の住所もThamrin No.1 であり左側・BI側はNO.2 なのである。ここまでで住所のThamrinNo.1 は二つあるのである。ちょっと見たNo.書いておくと:

サリーナ No6、スカイラインNo9、日本大使館 No.24、 ヌサンタラ No.59 である。プラザインドネシア(グランドハイアット)Kav28とかもある。調査はここまで。

 

2019年5月 3日 (金)

令和元年三日目

Third day of Japan's new era "Reiwa"

令和元年3日目、初めて漢字で書いて見た。菅さんが示した漢字はしっくりこないが小生が書くと自然と令和の行書体となった。今読書中の時代が享和であるのでつい、リョウワとよんでしまうが、一昨日の初日は、自分の心に久しぶりに感じた静謐な気持ちに新しい時代への決意を新たにしたものだ。上皇・皇太后の30年の様々にぐっとくるものがあったが、新天皇・皇后お二人の御覚悟とご決意にも大きく打たれるものがあった。それは心の内に丸く収められ、ゆったりしたお姿に垣間見たものである。そしてあのような笑顔の美しさは始めてみる、悟りの美しさであり、世界に発信した日本の朝朗であった。

 3日目になって初日の決意が薄れてきそうな不安な自分を感じたが、これからは少なくともお内儀にのんびりしてもらうことを第一に、日々のつれずれに思いを致して過ごしていこうとレベルを緩めてみた。

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