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ジャカルタ新旧あれこれ

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2019年5月14日 (火)

トリサクティ悲劇の画策者

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今日はスハルト退陣となったジャカルタ動乱の日であった。何となく開いたIDNタイムスにヘッドラインが“98年の活動家の証言で見るウイラントとプラボオのリアクション”と言う記事があったのでそれを掻い摘んでみる。

IDNの取材で証言するのは当時のトリサクティ大学の自治会(senat)の長で現在は98年同胞団(Paperti)の会長のヘンドロ氏である。

まずはこの動乱の壮大な劇は裏側に凄い頭の良いものが仕組んだとものとの断定で最初の学生への射撃命令を発したものであり、それは又警察や陸軍等の下級将校ではなく国軍の4星将軍であるはずだということだ。その上射撃はゴゴ5時から夜9時まで停止しなかったとも証言する。

二人とも大将でありその一人のプラボオは戦略予備軍司令官(Pangkostrad)を解任され、1999年になってやっと 国会のPANSUSの聴聞に応じたが、その時ヘンドロ達はプラボヲの家族とも会うことが出来た。彼はだれが撃ったかについて答えはなく彼の眼には涙があった  

Pansusが召喚した者に、あと、Timur Pradopoが居たが彼はジャカルタ西警察署長で彼はヘンドロに記憶を呼び覚させてくれた。

トリサクティ大学の15,000人の学生が国会に集まる途上警察のバリケードに阻止されていた。従い集団は10時に出発し国会へのロングマーチを開始し夕方5時にTimorとネゴを開始したが5時半になっても埒があかず我々は破壊行動に出たことを思い出させた。トリサクティを警戒する治安維持の職務からTimurは、何度もその後処理を聴取されるためPansusから召喚された。

彼と会ったとき彼は寂しそうに見えた。本当に彼は私に“これはあなたと私の問題ではなくそれは民族の歴史の進展の問題だとよ”と言うだけであった。

私は彼の警察でのキャリアについて考えたことはないが彼は誰が命令したかを言い残した。それは端っこは同じだ(ujung-ujungnya sama)と言い顔をなぜて口をつぐんだ。

2003年になってウイラントは政党を創設するために意欲を見せ我々は彼の自宅に呼ばれたことがあった。ヘンドロはそのHanura党(人民良心党)として知られる党への参加を誘われた。

時刻は朝の7時であったが彼に計画を聞くと大統領になるためと答えたので“その前に色々知りたいことがある、だれが私の友人達を撃ったのだと聞いた。彼はすぐ真剣になり、自分の利用する政敵は多いので大統領になる積りはないといった。ヘンドロはそういうことだから政党に参加する積りもないしそれでわかるだろう、彼は誰が居たかを知っていたのだよと言った。

解かりにくく書かれているので要領を得ないが、ついこの間、堂々と大統領選に出たプラボオも未だ完全な嫌疑は消えてないのであろか。

追:写真はトリサクティ大校内の慰霊碑だが他に撮った写真が散逸しており、それを探しながら代りに同年525日の特集タブロイド紙を見つけた。これなら詳しく状況が解るだろうが、今更の感もある。そんなこんなでこのブログの仕事は午後5時から9時まで掛かった。Selamat Jalan , Selamat Jalan, PahlawanDsc_0051  

 

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