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2019年10月

2019年10月25日 (金)

ウオノボヨの秘宝

Wonoboyo Hoard

「Sabda Palonの世界」で顔を出したジョヨボヨ王で思い出されるのがウォノボヨ(Wonoboyo)の秘宝である。

Wonoboyo-hoard ジャカルタの国立博物館の中の宝物館に飾られている古マタラム時代の金銀財宝なのである。名前が似ているだけであるが実は歴史的にもジャワ王朝の流れの中にある。 仏教とヒンズーが調和した時代、ボロブドウルとプランバナンの世界遺蹟を生み出した時代で、ボロブドウルの建築なったシャイレンドラ朝から次のサンジャヤ朝(835年~)の910年にプランバナンが建設されるがメラピ山の噴火があり929年にここを捨て東に移り、クデリ朝となるが、ジョヨボヨの治世はその後期で1,135年である。財宝は農地の灌漑工事で偶然見つかったそうで1990年の事である。しかしその点数と金細工の精巧さはおどろく。国立博物館のいくつかの写真を加工して作ったが画像を添えたが実際には15種類ほどの160点ほどにもなり、ジャーに入っていた金貨たるや6,000個に達しているそうだ。夢のまた夢であるが、又起こりそうな予感がする。

2019年10月22日 (火)

サブダパロンの世界 PanjiとDewi

Lontar

 

処分しにくく、持て余しているインドネシア土産がある。紙芝居でもするか、メッセージ送付カードとでも言おうか、奇妙なインドネシアの伝説シーンみたいな絵が描かれた6㎝四方のカードでちゃんと封筒もある。秘密のメッセージに使えそうだ。

 

どこで買ったものやら、空港なら多くの人の目に触れているだろうが、小生は、何か未だ知らないインドネシアの文化のような感じに惹かれたのであろう。カードは更に見開きになっており、メッセージを中にたたむことが出来る。

1枚手に取ったカードの裏には“A scene from a wayang beber episode depicting Sabda Palon and Naya Genggong in audience with Dewi Sekar Taji.

云々と書かれているがこの絵を描いた作者は不明とされている。この記述の中の固有名詞などを少し調べて、それをつなげて、1日分の仕事の終わりとしたいが、伝説説話の世界であり、いろいろなVersionがあるので正しくつながるか自信がない。まずは Sabda Palonであるが、彼は歴史上のマジャパヒット王国の最後の王、ブラウイジャワ5世のお抱え宗教家或いは修行僧のようで、ここではクディリ(Kediri)朝時代の話を残した人物である。

ハヤム・ウルック、ガジャマダが拡大した栄光のマジャパヒット朝も、1478年にイスラム国のデマクより侵略された時代である。マジャパヒットはヒンズーであるが当時は仏教と調和のある王国で徐々に迫るイスラムに対抗して作られたのがWayang Beberである。Beberを紐解くと紙芝居とある。やはり冒頭の推理は正しいのだ。こうして作られたジャワの説話で民衆を引き付けていたのであろう。説話は多くあるがその一つがPanji王物語である。歴史書にも出てくるが、歴史背景はクディリ中興のアイルランガ王が没する前に二人の息子用に国を二つに分けたが、いずれ統一を願って一つのJanggala国の王子Panjiに許嫁としたのが、あと一つのPanjarKediri)国の王女で、ここに出てくるDewiである。継母の邪魔が入り多くの苦難の後ではあるが、二人はつながりそうして統一されたPanjar側のKediri朝で隆盛を謳歌したのがジョヨボヨの預言書を作らしたジョヨボヨ王である。

Naya GenggongSabdaと同じ修行者のようであり、或いは同一人物説もあるようだが、要はこの絵の話はSabdaのヴァージョンと言うだけで、女性を除き誰が誰なのか、何の場面なのかは、奥が深く今日はたどり着いてない。

2019年10月10日 (木)

Dr.Suratmoと言う道路

00jembatan-merah08-mar-113-2 道路の名前にSuratmoと言うのと出会った。

Suratmoでgoogleすると軍人しか出てこない。軍人のSuratmoは“退役陸軍少将で2014年に陸軍ロジスティック部門を指導した。クラテンの旧家の子弟で1983年東チモール戦線で功績を残した。”と出ているだけである。  Suratと言う名前なら何人かいるがDr.を付ければ内科の医者であろうか MoはMissouri州の省略形のようだが、いまだ存命中で名前が残るはずはない。この道はPangerang Jayakartaの方が有名過ぎてSuratmoを使うこともなかろうと調査を諦める。。

ここはタンゲラン側のPangeran Tubagas Angkeの始めから市中心に向かい一旦途切れた後、コタ駅近くでチリウン河添いのPamgeran Jayakarta通りに入ってきた道で、交差するGunung Sahari通りを越えるとIndustri通りでクマヨラン地区に入っていく。 Genung Sahariの手前の橋はスラバヤにある有名なJembatan Merahと同じ名前である。Jembatan MerahはBogorにもあり、又カリブサールに架かった観光橋もこの名前で共にブログで紹介した。

Pangeran Tubagas Angkeの起点の近くにJembatan Besiがあり中間のコタ駅の近くがJembatan Batuの地名がある。 BesiとかBatuは橋の材質をあらわすもので橋の名前ではなく地域の名前となっている。 Jembatan TigaやJembatan Limaなども道路や地域の名前である。

2019年10月 3日 (木)

道路名の親子のチョクロアミノト

 

ジャカルタの南北の幹線のタムリン・スディルマン通りとなるのであろうが、歴史的或いは長さから行くとボゴール街道になろう。ところで道路名に付されたインドネシアの英雄偉人の名前はこれらの道路からは全てピックアップしたが、今見ると3番目の南北線のラスナ・サイドに未収録の名前を見つけた。

ここで通りの名前を言っているがそれは交通機能・経済的な流れの通りを言うものでタムリン・スデルマンと言っても始発は北の中央駅から終点は地下鉄のレバックブルス駅の通りで言うもので実際には主たる通りで言えば:ガジャマダータムリンースディルマンーシシンガマンガラジャ―パングリマポリムーファトマワティとなる。

00ragunan-harsono

その伝で言えばラスナはメンテンーチョクローラスナサイド―マンパンーワルンブンチットーハルソノで終点はラグナン動物園である。ハルソノで一番でネットにひっかかる名前はHarsono Tjokroaminotoでこのラスナサイドの手前の道路名のH.O.S チョクロアミノト(1882年~1934年)の次男である。

ハルソノは1912年生まれでオランダ時代には、北スラウェシでPSII の教師および文筆活動で政治的-イスラム的志向の活動を支援しつつ日本占領時代には憲兵に拘留されたりもしたが独立戦争ではスディルマンに付き従い、独立後は1946年、ナツィール内閣で国務副大臣を、そして1955年ではBurhanuddin Harahap内閣で副首相を務めている。

その後は世界イスラム青年会議の会長になったり、1972-1975年にはスイスのインドネシア大使、そして1976-1978年にインドネシア最高諮問委員会のメンバーであった。

道路名にはHarsono RMともなっているがこの名前ではこの人の出生年も不明で面白くはない。人違いであってもHarsonoである以上迷子にはならないだろう。

補追(11月23日):

実際の道路名にはHarsono RMともなっているが、父の名前は Raden Mas Hadji Oemar Said Tjokroaminotoでここから敬称がRMHOSと二つあるので、Harsonoは息子として間違いではない。因みに娘さんUtariはスカルノの一番目の妻であった。ハルソノ氏は2019年現在Wikiでは107歳とある。

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