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今さら日イのはてな

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2019年12月

2019年12月29日 (日)

じゃかるた浦島その2 S. ブロック M

05543ecfe28c48cb9b7755aa37a054cf_169M Bloc Space
Blok M Squareの近くに確か似た名前のSquareが出来ていたことを知り、浦島第2弾で上げようと思っている内に日日が過ぎて、再度何か付加する話題はないかと検索かけたが出てくる話はBlok M Squareだけである。それもそうである。名前が逆さまだと思って検索かけたのはSquare Blok Mで、本当は M Bloc Spaceであったからである。

 

Mbloc_di1980x719何とか場所をGoogle Mapで探したが、何とか探し当てた場所は、今もってこんな所にと、それも短時間にこれだけものが出来るとはと言う驚きである。 ここの南側はそのBlok M Squareに行けるBlock M Mallの入り口に近いが、

 

Square-2北からはアセアン・センターのトルノジョヨ通りの向かい側の角地で、相当前から昔の造幣局(PERURI)で、古びた空き家の社宅が4~5戸も並んでいる所であったが、シシンガマンガラジャ通りからは1メートルの高さにあったので、こんな所がいつの間にと、驚く訳である。
Square-1しかし此処はバスウエーがブロックMターミナルに左折し入っていく所で、その辺りは段差がなかったようだ。
ターミナルが出来る前は、裏手は人も知る外人遊興地でチャンピオンバーやディスコなどもあったファラテハン地区である。
写真を探して昔と今を比べてみても それ以上説明は出来ない。
今月始め、“ジャカルタ浦島その1”では“212集会とアキラ・コンチ”であったが、現地在住の日本人にとっては周知の事だろうと締めるしかなかったと締めたが、今回も同じである。但し今回は、日本と関係ないので、「ジャカルタ新旧あれこれ」にアップした。

 

2019年12月24日 (火)

11月投資環境トピックス:何故か多い好韓:巨星落ちても など

11月投資環境トピックス
何故か多い好韓:
12/16 新首都建設では韓国と提携:ジョコウィが方針。
11/25 イ韓CEPA交渉妥結、ジョコウィ訪韓に合わせて。
11/13 起亜、インドモービル傘下で販売開始、「ピカント」「リオ」「G・セドナム」等
11/19 訪韓の工業相がロッテ会談、チレゴン石化工場ナフサ増産引上げ、43億ドル規模へ
11/26 現代自、2021年にデルタマスで工場建設、初年産15万台、30年までに15.5億ドル
11/25 テレビ需要スマートTV 1.5倍、売れ筋40インチ:シェア40%サムスン
11/28 ソフトバンク、リッポーと提携、リッポー・ビレッジでスマートシティ開発へ。

鉱石資源関連ニュースの賑わい
11/16 山東南山アルミ、ビンタンで年産100万トンのアルミ製錬所増設へ、投資31億元。
11/19 バーレ・インドン(住金出資)、スラウェシでニッケル製錬所建設$25億、来年稼働。
11/22 来年1月発効のニッケル鉱石輸出禁止政策に関わり、EUがWTOに 提訴。
11/29 欧米韓中から石化とリチウム電池分野への対イ投資意欲、BASFも

Photo_20191224180601根強い高級志向
11/11 JCB、BCAとクレジットカード「BCA JCBブラック」発行。最高峰VIP
11/12 三菱自動車、「エクスパンダー」最上位モデル発売、2.677億~2.867億ルピア。
11/19 レクサス・インドネシア、新型RXシリーズ発表。

巨星落ちても
11/27 チプトラグループ創設のチプトラ氏死去88歳
11/23 深田祐介作「神鷲商人」のモデル桐島正也氏死去87歳。
1/26 シナールマス創業者エカ・チプタ・ウィジャヤ死去97歳。思い出したらもう1年前

廃棄すべきゴミ・ゴミ
11/7  イのごみ排出量6,700万トン、プラスチックゴミは中国に次ぐ世界第2位:世銀。
11/21 廃棄物輸入規制の新商業相令発布、プラスチックと紙のスクラップ監督強化
11/27 モロワリのニッケルなどEV電池原材料メーカー、化学廃棄物を海中で保管問題
11/7  北スマ豚コレラ感染、5,600頭死亡、川への廃棄禁止
11/13 メダン警察署で自爆テロ、警官んど6人けが、46人摘発、うち23人は過激派
11/25 デンパサールで邦人女性がアパート2階から転落、強盗に遭い逃げようとしたか。

日系進出も不動産からデジタルへ:待っているよ
11/15 SCSK開業、デジタルトランスフォーメーションへの参画・企画。(住商系)
11/24 Prixa、AIベースの健康診断システムの展開でアルファマートと提携(地場同士)

一寸記録に
11/21 不動産投資展望ランク、ジャカルタはダウンの18位、トップ星、東京2位、
11/25 プルタミナ、コミサリス長にアホック元首都州知事。プルタミナは増益22億ドル
11/28 GE、バンドンに世界規模の発電所の修理・部品センター設立計画。
11/15 国内最長の高速道路区間ランプン~カユアグン(南スマ)間(189km)が開通。
11/5  GM、「シボレー」ブランド車のイ販売停止へ、来年3月まで。
11/11 PGN、中国石油化工集団とLNG輸出契約。
11/29 2025年の二輪車生産1千万台、うち20%は電動二輪車で、アセアンのセンターに。

2019年12月18日 (水)

インドネシア武道シラットが世界遺産に

Puncak Silat World Heritage

 

12月15日、ユネスコは42件の世界無形資産の認定を発表したが、この中にインドネシアのマーシャルアーツのシラット(pencak silat)が入っている。リストにはマレーシアにこれと同じと思われるシラットがあり、ここにも又両国の自国争いがあったのかと今さら驚いた。そこで過去ブログを調べると既に3回も書いている。プラボオ会頭選出争い、歴史、及び教えである。一つだけ引用しておこう。“Puncak SilatでPrabowoとGobelの争い 10月29日”
Padepokan-sirat-taman-mini-062-2つい先日インドネシア・プンチャク・シラット協会(IPSI)会長に元コストラッド司令官の退役中将 Prabowo Subianto氏が選出された。 実は総会の前日に決められていたため単に儀式であったが、前日の会議では候補者演説も無く民主的でなかったためRachmatは候補者から降りたようである。Rachmatはこれまで身銭を切って育てたチームも解散、再編成するというが2007年東南アジア競技大会までにはあと2ケ月しかない。現在世界のチャンピオンはベトナムである。 プンチャク・シラットもフイリピンやマレーシアにもありこちらも本家争いがあるが日本のプンチャクシラットはインドネシアからの先生を呼んでやっている。 プンチャクシラットの本部兼訓練所(ホテル併設)はタマンミニに向かう道にのTMIIのすぐそばにある。Rachmat Gobel氏は松下パナソニックとの合弁相手で父親のモハマッド・ゴーベル氏の時にパートナーとして大きく育った。今後も同じ場所にある国際シラット組織の常任顧問としてシラットの活動を続けるそうだ。]
このシラットのほかにはタイの古式マッサージ(Nuad Thai)も認定された。

 

2019年12月17日 (火)

ヌール・アリの真実

 

昨日の続きでもNoer Alieのもう少し詳しい伝記があった。
http://sosok-tokoh.blogspot.com/2016/05/biografi-singkat-kh-noer-alie.html
肝心の部分を要約してみよう。
日本占領時代(1942〜1945)はヌールは日本軍の宗教管理事務所に名前が知られているので十分注意を怠らなかった。1942年、マトラマンの日本軍州境管理事務所に呼ばれ、そこの長はメッカで知り合ったハジ・イナダと言う日本人で日本軍の協力を要請してきたがヌールはプサントレインの仕事があると拒否し、イナダもアジアラヤに抗しないことでプサントレンの継続を認めてくれた。ヌールはインドネシア青年が何時かは自国の為戦うこともあり得べしと兵補や警防団に協力し又弟子をPETAに参加させたりした。独立宣言の後彼は地方委員会(KNID)に選ばれ又9月19日のイカダ(現モナス)大集会には大衆動員をかけた。その後はブカシのヒズボラー大隊司令官になっている。スラバヤの英雄の日となった戦乱の中ブントモと共にラジオ放送で連呼し、キアイ・ハジの名前で有名になった。
1947年7月オランダの軍事侵攻の際はヨグジャのシモハルジョ将軍から西ジャワのゲリラ活動を命じられカラワンにあるヒズボラ・サビリラ(MPHS)本部の司令官になりました。
彼らはインドネシアの独立運動がまだ存在していることを示すために、各地で戦いを挑み、Rawagede、Karawangでは村の家々や木々に紅白の小さい旗をかけさせ、オランダはこれを怒り、これはインドネシア国軍によるものだとその長ルーカス・クスタリョ少将を捜索にかかり、住民をとらえ、最後には431名もの虐殺に走ってしまっていた。
云々という程度で、詳しいようで詳しくない。

 

Rawagede少し調子よくなった小生のGoogle Map ではKarawangインターチェンジからRengasdenklokに向かう途中にモニュメントがある。Pool 遊園地もあり、ベカシ・カラワンにゆかりがあれば一度は行くべきだろう。
Noer Aliの道の先はChairul Anwarの名前の道があるが、ここからも相当遠い場所になる。
その詩人の事についての小生のブログは2011年9月22日 (木)
「ハイリル・アンワルのKarawang-Bekasi叫びの勝利」に次の様にある。
モナスの西側にタムリンの胸像があったが、北側にはChairil Anwarの胸像がある。 インドネシアの詩人であるが文学分野でオランダとの戦いを挑んだAngkatan 45の代表である。彼が謳った詩Karawang Bekasiと言うのがあるがこれはオランダ軍によるRawagedeにおける村民431名の虐殺事件を糾弾する歌である。
オランダ軍は反戦指導者LUKAS Kustarioを追ってRawagedeにやってきたが村民はKustarioの所在を明かさず、結果1947年12月9日オランダ軍は男の村民431名を銃殺した。64年も前の事であるが2008年になって残された未亡人10人がオランダ政府を告訴し、今年9月15日にその判決で勝利を獲得したのである。
モナスのアンワールの胸像にはこの詩が刻まれている。
“Kami yang kini terbaring antara Karawang – Bekasi Tidak bisa teriak 'Merdeka' dan angkat senjata lagi” 我々は今カラワンとブカシの間に散華し、ムルデカを叫ぶことも武器を取ることもできない。
その村に行くと死亡した431名のお墓がびっしり並んでいる。村民は実際Kustarioの所在を知らなかった事が後で判明したとのことが勝利の判決となったのであるが、知っていたとしても明かさなかっただろうと名誉を維持している。理由如何でオランダが正当化される問題ではないし431名に十分な賠償をすべきである。 

 

本件に関しては2012年5月10日 (木)「ブカシの英雄Noer とChairil」にもあり、なんと3回目であった。

 

2019年12月13日 (金)

世界屈指のジャカルタ高速建設技術

Pintumasukketollayangjakartacikampek22階建て高速 Layang Japekが、とうとう完成してジョコウィ大統領が完成宣言したニュースがあった。 たった3年で完成させたことになる。ほとんどの日本人が今まで毎日完成を待ちながら渋滞を辛坊しじっくり見て来たであろうから、よく知っていることであるが、日本にいるとこのように長い高速の2階建ては空想も出来ず、昨年ブログにしたときも半信半疑であった。最大の疑問はこのチクニールからカラワン・バラットまでの37㎞の間、途中下車が出来ないのか、その間にある多くの日系入居の工業団地勤務者は利用できないのかということであった。そして今日先にGoogle Mapで確認に走ったので半日かかったのである。昨年6月のブログでは“これら工場団地MM2100、Jababeka、LIPPO、現代、GIIC、KIIC、Surya Cipta、Indotaiseiと目白押しでそれぞれ全てにアクセスする現在の高速出口におろすとするとそのインターチェインジは最大9ケ所も必要になるが当たった報道では、名言はなく工事の9つのジャンクションが書かれているだけであった。小生の推定はCikunirで乗ればKarawangで降り、Karawangで乗ればCikunirで降りることになるのではないか。Trans Jawaの一環としてジャワ東部への遠距離車用とすれば各駅停車は不要と考えることも出来る。” としていた。そしてやはりその推定は正しかったようだ。そして先行のカサブランカなどの2階建ては乗り或いは降りるときに渋滞になるが、こちらはどうだろうか チクニールでは現在の高速路線から離れて2階に乗るので渋滞は起こらないだろうが チケット状況にもよる。ここではe-チケットなのでそれになれれば問題はないかもしれない。それより料金次第では利用者がすくなくなる恐れもある。ここは速度制限があり最高60kmであり、バストラックは利用不可としている。 37㎞を1km当たりp1,700 とすると、Rp60,000 と高額となる。ブカシ迄のBecakayuは Rp14,000で利用者が少ないと言うがちょっと比較相応ではないと思う。

 

2019年12月10日 (火)

ベカシの英雄ノエール・アリ

ベカシの英雄ヌール・アリ

 

NoorやNurに英雄が居るかと過去ブログを見るとNoel Aliがまず出てくる。打ち捨てられた高速道路のBecakayuを紹介する時、その線路添いの道がJl. Noel Aliであると簡単に済ましていたので、これ幸いと調べに掛かった。
例によりWikipedia (https://id.wikipedia.org/wiki/Noer_Alie)には半ペイジほどでこれなら簡単だと取り掛かることにする。それによると:「キアイ・ハジ・ノアー・アリエは、1914年7月15日に西ジャワ州ブカシで生まれ、1992年1月29日に西ジャワ州ブカシで死去したインドネシアの国家英雄である。2006年の大統領令第085/TK/2006、2006年11月3日で国家英雄に叙せられた。彼はアンワル・ビン・ラウとマイムナ・ビンティ・タルビンとの間の息子で、ブカシ周辺の何人かのウラマから宗教教育を受けた。1934年、彼はハジを実行し、メッカで宗教科学を深め、6年間そこに定住しました。」何故かこれだけである。2014-tambung-21 それでは始まらないので英雄センター(https://pahlawancenter.com/kiai-haji-noer-alie/)の説明に詳細を求める。追加説明を引用すると :
* 1937年ハッサンバスリとブタウイ学生寮を設立、その後日本軍の占領で、日本軍の力が及ばないブカシにプサントレンを設ける、
* 独立後はブカシ地区の地方役人(KNID)に任じられ、ジャティネガラなどで軍TKRとラスカルラキャット(人民野戦軍)を組織、青年たちの訓練に従事
* オランダの第一次侵攻の際は ヒズブラー・サビリラー司令本部と共にチカンペックで新しいゲリラ部隊を組織。
* レンビル協定の時代はノールの部隊はバンテンへ聖戦、或いはチパユンでオランダ軍に追われ危うく捕まりそうになったが逃走に成功。
* 1949年、ノールはマシュミ党のジャテイネガラ地区或いはブカシの役員におされ、1955年の選挙では彼の地区のマシュミ党は最高の投票を得、中央議会のメンバーとなる。
* 1965年G30S/PKIが起こるやイスラムの組織の同僚と協力し、特にブカシ地区で活動を強化した。
以上の貢献により2006年国家英雄に叙されると言うだけで、いやに簡単である。今一つとして
イスラムの全国紙でもある新聞Republikaの記事KH Noer Ali, Sang Singa Karawang-Bekasi
(https://www.republika.co.id/berita/dunia-islam/islam-digest/19/02/12/pmsv1k458)
から又追加すべき事項だけをピックアップする。
 ヌールは1940年に故郷に戻りAt Taqwaプサントレンを先ず設立した。At Taqwaは宗教教義を学びながら支配者に抗する拠点でもあった。
 日本占領時代も彼の意気は落ちることはなかった。日本は最初日イを旧友だと言いふらしていたが残酷さはオランダと変わることなく、更に戦局に従いインドネシア人の同情を求める方向に流れた。一つの例はPETA(郷土防衛隊)である。ヌールは軍事訓練を受けることはいずれインドネシアががそれを必要とするときが来ると見たから、これらPETAや兵補、警防団に多くの若者がが参加することを止めることはなかった。
 ヒズブラーは日本軍の時代からのものであったが、ヌールはヨクジャにスディルマンを尋ねた時の結論はインドネシア正規軍のフリルを付けずゲリラを継続することを求められ、このゲリラ戦はオランダ人を欺き効果を挙げた。
 ジャカルタのヒズボラ・サビリラ本部の時代だろうか、彼はオランダ軍に恐れられていたが、捕まえるのはウナギを取るのほどに難しいと言われ「カラワン・ブカシのウナギ」というニックネームが付けられたのだ。
 その年の年末に、オランダはついにインドネシアの主権を認めた。ノエルは人民の戦士たちを解散させ、彼自身はAt Taqwa 財団を通じた教育の世界に捧げることになる。

 

この引用紹介文も長くなったが、小生の気持を明かすと、この人こそ、詩人アンワールが詠った「カラワンーブカシの間」の惨劇のオランダ抗争の主人公の一人で、その惨劇は2013年だったかオランダ政府が初めて謝罪した戦争犯罪であり、小生はその現場に立った時があるような気がする、それにしてもなぜ英雄叙勲がこれほど遅れているかの詮索が続くだろうと言うことだけ述べて今日は終わりにしておこう。
但し道路名となった地区が英雄本人の出生地であるという数少ない例(これしか知らない)00grand-wisataである。

 

2019年12月 9日 (月)

青空はためくパスキブラカ

 

19941anggotapaskibrakamembawabenderapusa Paskibrakaパスキブラカという単語も何語だろうかと、戸惑うがインドネシアでは独立に由来する由緒あることばである。 毎年、独立記念日の大統領宮殿での式典でテレビに釘付けにされるが、あの国旗掲隊Pasukan Pengibar Bendera Pusakaの凛々しさと翩翻とはためく紅白旗に胸躍らせる青少年も多いことだろう。
1945年の独立宣言の日の国旗掲揚はスカルノの自宅でファトマワティが手作りした国旗を掲揚したが、翌年は大統領は独立戦時下のジョクジャにおり、側近の一人、少佐(海)フセイン・ムタハルに、国旗掲揚儀式の執り行いを命令し、ムタハルはヨクジャにいた、インドネシアの全地域から代表を選ぶよう手配したがその時はどうにか5人を選ぶしかなかったようである。それでも5の数字はパンチャシラである。オランダ撤退後はジャカルタの大統領宮殿にスカルノの親衛隊とか家中で執り行われたようだが、スハルトは66年に再度ムタハルに組織化を命じ現在の形が出来上がっていった。掲揚隊はこの宮殿の他、政府レベルでは州知事と県知事で組織されたが基本は核となる国旗隊8人と随走隊17人に護衛隊45人が付く形をとる。
00sampurnq-aug17 8月17日のジャカルタ市内の状況は何度もブログで特集したが紅白の国旗を縦横に、大胆な発想で大型旗や小型の連楊旗、しめ縄ねじりや三角旗や五色旗迄町中を飾り立てる。日本は日章旗をgoogoleすると日支放棄になるほど見掛けることもないが、インドネシア人のクリエーテブには感心する所である。紅白であるので日の丸の色と同じで有るが、関係はなく又オランダの国旗から青を引きちぎったマジャパヒットホテル事件も思い出すが、インドネシア人はそんなことは一切口葉にも出ず、この色はマジャパヒット時代からの国の色であるそうだが、それだけでも又数刻を要する。

 

2019年12月 5日 (木)

Den HaagのHamid 二人

 

昨日のAbdurrahman Baswedanから始まった混乱の原因は、3人の共通項でその一つがアラブの名士として取り上げた、アラブ系のインドネシア人であると言うことであったが、あと一つ言い遅れたのに3人は共通の時代であると言うことがある。
まずこの3人は生まれと死亡の間に3人がそろっている期間が62年もありそれは
Sultan Hamid で1913年~1978年で、
Hamid Algadriが 1912年~1998年で、
Abdurrahman Baswedanが1908年~1986年である。

 

Konferensimejabundarkmb時代特徴的には特に独立宣言のあとシャフリルが未だ力を持っていた時代で特に前2者はハーグの円卓会議に参加していたということである。Sultan Hamid II世はユリアナ女王の補佐官の一人にも任じられた親オランダの人物で、所謂傀儡国群(16ケ国・地域)BFO代表で自身は西カリマンタン独立国代表である。共和国側はハッタを長とするルム・スポモなど計10人の代表団で、彼らと同行した顧問団の一員にHamid Algadri がおり、軍事問題が担当であった。二人は知己ではあったが政治的には意見を異にしていた。シャフリルもハミッドⅡとの出会いの最初から対立感を覚えたが後には昏倒を救われたこともあり、Hamid侯の優しさと勇敢に感銘し仲を一転している。ウエスタリング事件関連で連座させられたことがあり汚点となったが、最初のRIS内閣で国務相となり、或いはその時代にガルダー国章を製作している。ユリアナ女王への忠誠と祖国愛の谷間にに悩んだいわば勤王の志士だ。彼については過去両手に及ぶほど書いているが、Hamid Algadriについてはつい最近11月17日の “ゴジェックの家系 Makarim & Hamid"で紹介した通りである。Hamid侯のフル名前や家系ににはArgadriが出てくるので別人かどうかを確認するのが今日の主目的である。
円卓会議の状況を示す古写真はアップした気もするが。。。再度アップした。

また過去記事へのリンクにも成功したし、文章原稿のコピー(従来はドラッグで失敗続き)にも通常エディターにより成功、将来またブログの一本化が展望できるようになってきつつある。

 

 

 

2019年12月 3日 (火)

最高混乱したインドネシア英雄名ブログ

最高混乱したインドネシア英雄名ブログ

昨日のBaswedanバスウエダンの記事を書きながら色々検索するうちに、興味のポイントがあちこち移動するので、頭が混乱し最高に達して危険を思えるほどであった。

その一つは、バスウエダンの紹介記事の中の「首相やイスラム政党マシュミ総裁を歴任し」という言葉で、バスウェダンは情報(Penerangan)副大臣は務めたが、首相などはあり得ぬしと、疑問詞を打ったが、この文章では、これは後ろに出てくるナッシール首相の修飾詞であることに気が付いた。次に独立準備委員会といえばBPUPKIと省略されジャカルタ憲章など署名した9人は有名であるが、バスウェダンは初めて聞く名前であった。疑問に思ったがBPUPKIは審議会でありメンバーとしては62人もいる事を一昨日知ったばかりである。

62人の中にバスウェダンもいたとしても事実としては納得できる話であった。

次に頭に去来したのは、タイトルの「アラブの名士」と言う言葉であるが、それならGoJekの創設者の若き富豪Nadiem氏(ジョコ大統領に教育文化大臣を要請され)の義父Hamid Algadriをもって小生はアラブ社会の名士と決めていたからである。決めていたと言いながら、それは10日も前で且つ、それを忘却しているのでそこに至るのに大変な時間を要した。

さらにHamidにはもう一人のHamidIIがおりそちらはハーグ会議の東インドネシア代表であり、此方もアラブ系だ。彼はポンチアナックのスルタンであり、インドネシア共和国の国章のデザインをした人でも有名である。実は小生は、この3人の中ではHamid-IIのみ知っている名前であったが、残念ながら英雄にはなれていない。

そしてこの二人は、二人ともハーグ円卓会議に参加していたようで、初めて知るその参加規模に驚いたわけだが、逆に英雄になっているのはBasuwedanだけなのである。

所で現市長のBaswedan は来年の大統領選に立候補しそうな勢いであるが、直系で英雄になれた話はなかった筈で、チョクロアミノト親子ですらまだだし、スハルトも英雄になれない狭い門なのだと何故かブロックする気持ちがあった。 ハルソノチョクロアミノトは親子で英雄ではなかったかと調べ廻ったが、やはりそれはなく、この親子はジャカルタの地名に親子二人、別々の所にあったのを最近知ったばかりであったからである。

混乱の最後はBaswedanの名前はAbdurrahmanアブドゥルラフマン Baswedanで、似たような名前を34日前、調べ廻ったことがあったことを思い出し、又それがどこでなんであったか探し回ったことであった。結局それは、東洪水運河添いのBasuki Rachmatラーマット通りやクブンシリーのメンテン寄りの道Arief Rachmanラーマンのブログに思い当たり混乱も終了したと思ったが、その道の先にAbdurrahman アブドゥルラフマンSalehと言う本命に行き当たった事であった。

そうは云いながらこうした思い違いや似たもの探しがこのブログを続かせる力になっているのだと慰めることにした。

タイトルは適切でなく、混乱しているのは小生の頭である。Terkacau didlm kepalakuではどうかな

2019年12月 2日 (月)

2018年インドネシア国家英雄 バスウエダン

Pahlawan Indonesia 2018 

先のブログで2019年の国家英雄6人をマラミス、カハールムザカールなどBPUPKIメンバー3人を代表させ紹介したが、もう候補者も枯渇するのではないかと言う気持ちとマラミス等未だだったのかという交差する気持ちに陥ったが前年の2018年も紹介してないなと過去ブログをしらべると昨年は、マシュミやPETAカスマン・シンゴディメジョのみ、偶々紹介してはいた。

2018年の全員の名前の紹介はしてなかったので今ここで挙げると:以下の6人であった。

Brigjen KH Syam’un
Muhammad Noor

Kasman Singodimedjo

Depati Amir

Agung Hajjah Andi Depu

Abdurrahman Baswedan

シンゴディメジョやノールの名前は歴史の本に登場するので少しは有名であるが、バスウエダンは現ジャカルタ市長の祖父だとか言うので、その時は驚いたことを思いだす。(それがブログにすることが遅れた理由か)そしてその時保存した日本語の紹介記事を今、アップすると以下の通りである。タイトルは「アニス氏祖父 国家英雄に アラブ系社会の名士」で「アブドゥルラフマン氏(1908~86年)は東ジャワ州スラバヤ生まれのアラブ系3世。新聞記者を経て1934年インドネシア・アラブ党を結党。アラブ系として初めてジャワの正装を着用した写真を公表し、「祖国はインドネシア」と宣言する「アラブ系青年の誓い」を発表。華人やプリブミ(土着のインドネシア人)とともにインドネシア民族の団結を唱えた。
 日本軍政期はジャワ奉公会会員、中央参議院議員を歴任。独立準備委員会、中央国民委員会を経て独立直後の46年、暫定政権発足時に情報副大臣就任。インドネシア独立の国連承認に向け外交活動に参加した。後に首相やイスラム政党マシュミ総裁を歴任し、スカルノ大統領と対立したイスラム指導者ナシール氏の側近としても活躍した。(蓜島克彦)」

[ジャカルタ今昔はてな]のブログで書いた今日のイスラム大デモ集会はどうなったろうか アニス氏が参加したニュースアラートは飛び込んできたが。。。何となくイスラムの有利性が又出てくるのか。。。

 

 

 

 

 

ジャカルタ浦島の新発見 その後のジャカルタ編1

 

当然のことながらジャカルタに永く在住し数十年ぶりに日本に戻ると、その間日本への関心が薄れ日本の事が解らなくなるとして東京再勉強を始めた話をしたが、ジャカルタ不在が又長くなるとジャカルタの変化に追いつかないことが多くなる。
Reuni212という言葉に会ったのは一作日で、同日在イ大使館からの12月2日のイスラム大規模集会への注意喚起のお知らせニュースを貰い、何だこの事かと、半場打ち捨てたくなった。
アホック知事の言葉尻を捕まえイスラム冒瀆だと決めつけ特赦もなく2年間も懲役にした不寛容さに辟易して来たからである。日本語googleでは「212同窓友好会」と言うようだが引っかかったのはジャカルタ新聞のニュースだが、なぜか、2018年、昨年のそれも開催予告ニュースだけだった。20191202rally-2 最初の抗議集会は2016年だったようで、2年を経た再結集の様に読めるが、これはフェースブックにアップされたもので、毎度同じだろうと2018年のニュースを使ったものの如しで小生と同じ不承x2さを感じたものである。このように宗教を政治に持ち込み利用したものである。これが最初のケースだったと思うが、今年もこれをやると言うので、来年の大統領選挙の混乱が思いやられる。
直ぐわかることだが、こちらのモナス集会に参加するのは元アニス知事であり、不参加を決め込むのはジョコウイ大統領かも知れない。
話は違うがアキラ・コンチネンタル・フィーバーという日本の芸人が知名度を上げTVにも登場している話があった。こちらも小生にとってはヒット性のニュースだが、考えてみるとイスラム大集会もこの芸人の盛り上げニュースも現地在住の日本人にとっては周知の事だろうとブログへのアップをこのように締めるしかなかった

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