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2019年12月17日 (火)

ヌール・アリの真実

 

昨日の続きでもNoer Alieのもう少し詳しい伝記があった。
http://sosok-tokoh.blogspot.com/2016/05/biografi-singkat-kh-noer-alie.html
肝心の部分を要約してみよう。
日本占領時代(1942〜1945)はヌールは日本軍の宗教管理事務所に名前が知られているので十分注意を怠らなかった。1942年、マトラマンの日本軍州境管理事務所に呼ばれ、そこの長はメッカで知り合ったハジ・イナダと言う日本人で日本軍の協力を要請してきたがヌールはプサントレインの仕事があると拒否し、イナダもアジアラヤに抗しないことでプサントレンの継続を認めてくれた。ヌールはインドネシア青年が何時かは自国の為戦うこともあり得べしと兵補や警防団に協力し又弟子をPETAに参加させたりした。独立宣言の後彼は地方委員会(KNID)に選ばれ又9月19日のイカダ(現モナス)大集会には大衆動員をかけた。その後はブカシのヒズボラー大隊司令官になっている。スラバヤの英雄の日となった戦乱の中ブントモと共にラジオ放送で連呼し、キアイ・ハジの名前で有名になった。
1947年7月オランダの軍事侵攻の際はヨグジャのシモハルジョ将軍から西ジャワのゲリラ活動を命じられカラワンにあるヒズボラ・サビリラ(MPHS)本部の司令官になりました。
彼らはインドネシアの独立運動がまだ存在していることを示すために、各地で戦いを挑み、Rawagede、Karawangでは村の家々や木々に紅白の小さい旗をかけさせ、オランダはこれを怒り、これはインドネシア国軍によるものだとその長ルーカス・クスタリョ少将を捜索にかかり、住民をとらえ、最後には431名もの虐殺に走ってしまっていた。
云々という程度で、詳しいようで詳しくない。

 

Rawagede少し調子よくなった小生のGoogle Map ではKarawangインターチェンジからRengasdenklokに向かう途中にモニュメントがある。Pool 遊園地もあり、ベカシ・カラワンにゆかりがあれば一度は行くべきだろう。
Noer Aliの道の先はChairul Anwarの名前の道があるが、ここからも相当遠い場所になる。
その詩人の事についての小生のブログは2011年9月22日 (木)
「ハイリル・アンワルのKarawang-Bekasi叫びの勝利」に次の様にある。
モナスの西側にタムリンの胸像があったが、北側にはChairil Anwarの胸像がある。 インドネシアの詩人であるが文学分野でオランダとの戦いを挑んだAngkatan 45の代表である。彼が謳った詩Karawang Bekasiと言うのがあるがこれはオランダ軍によるRawagedeにおける村民431名の虐殺事件を糾弾する歌である。
オランダ軍は反戦指導者LUKAS Kustarioを追ってRawagedeにやってきたが村民はKustarioの所在を明かさず、結果1947年12月9日オランダ軍は男の村民431名を銃殺した。64年も前の事であるが2008年になって残された未亡人10人がオランダ政府を告訴し、今年9月15日にその判決で勝利を獲得したのである。
モナスのアンワールの胸像にはこの詩が刻まれている。
“Kami yang kini terbaring antara Karawang – Bekasi Tidak bisa teriak 'Merdeka' dan angkat senjata lagi” 我々は今カラワンとブカシの間に散華し、ムルデカを叫ぶことも武器を取ることもできない。
その村に行くと死亡した431名のお墓がびっしり並んでいる。村民は実際Kustarioの所在を知らなかった事が後で判明したとのことが勝利の判決となったのであるが、知っていたとしても明かさなかっただろうと名誉を維持している。理由如何でオランダが正当化される問題ではないし431名に十分な賠償をすべきである。 

 

本件に関しては2012年5月10日 (木)「ブカシの英雄Noer とChairil」にもあり、なんと3回目であった。

 

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