久しぶりスハルト・ニュース
Pak Harto Nostalgia
彼の名前のニュースが出たが、それはインドバロメーターによる人気度調査で過去・現在のインドネシア大統領のランク付けで、スハルトが人気の現職(25%)を抑えてトップで約3割のファンが未だ居ると言いうものであった。3位が23%のスカルノである。
スハルトのポイントはバランスよく点が取れているということ、教育分野では大統領令を出し遠隔地や最頻家庭の教育を整え、医療分野ではPuskesmas保健所を設けたことや住宅部門で公団団地perummas建設は有名で、必要物資の安定価格供給でも相対的に維持できたと評価しているが道路や橋梁・ダムなどインフラ開発には不滅の功績を残した
しかし欠点は自由と民主化である。又汚職で、デモ動乱の中辞任に追われるまでの治世35年間で横領された富は150億ドルから350億ドルと言われる。
今でも民衆の間ではスマイルの肖像画が描かれたTシャツを着ている若者も多くジャワ語でPiye kabare、isih penak jamanku、tho?(まだ私が恋しいですか? 注:ちょっと意味不明)はまだ広く使われている。2011年はスカルノが36%でトップであったものだ。スハルトの英雄叙勲を心待ちしている小生にはウエルカムのニュースであるが、スカルノが英雄になったのは失脚後20年であるがスハルトも失脚後もう22年である。彼の家系などを記述すると1921年6月8日ヨクジャの近郊生まれ、父親はワギヨ、通称パンジャンと言われた水役人であった。父の2回目の結婚はハメンクブオノ第二夫人の遠縁スキラとの子供がスハルト。3回目の結婚でも4人の子供がいるが別れた夫人(スキラ)の2度目の結婚で7人の子供があり、そのうちの1人がプロボステジョである。
パンジャンの父がKertoironoと言い娘にPrawirowiharjoがおりその子供がSudwikatmono、スハルトの従兄にあたる。スハルトは父パンジャンと幼い時に別れ、叔母のPrawirowiharjoの下でスデイカトモノと共に育てられた。1947年に ティエン夫人 (Raden Ayu Siti Hartinah,シティ ハルティナ、Tien Soeharto)と結婚。彼女は1923年生まれで、マンクヌガラ王家の子孫スモハルヨモの子供で、夫と同じ小学校に通ったという。末妹の夫がウイスモヨ アリスムナンダール元参謀長である。幼年時代は父母の間を行ったり来たり。 中学時代はドゥクンのダルヤトモに養育された。中卒後2年位オランダ軍KNILに属し、1943年PETAに入隊し45年共和国軍大隊長、49年のオランダのジョクジャ占領時の夜襲反撃は伝説的に有名である。53年からディポネゴロ師団、58年師団長慈善団体作り、代理スジョノフマルダニが財政担当しスドノサリムやボブハッサン(ガトットスブロト大将の養子)が協力した。
58年、陸軍幹部学校へ配属。准将。61年KOSTRAD司令官、62年少将でイリアンのマンダラ作戦で活躍、65年9月30日G30Sを制圧。当時中将。スハルト帝国の基礎固め迄である。子供は3男3女、これでビジネスエクゼクティブその23くらいでつなぐことが出来る。

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