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今さら日イのはてな

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2020年4月

2020年4月29日 (水)

SimatupangとKartiniのAvec道路

SimatupangとKartiniのAvec道路 Simatupang通り添いに東急不動産が開発したコンドミ2棟、ブランズ・シマトパンがたっている。 ブランズ・ブランドの2号目で、インドネシアで開発・設計・施工すべてを日系企業で推進する分譲マンション事業の最初で、建設も大林組が施工した。ネットで見る出来栄えは素晴らしくすぐに決めたくなる。 ブランズ・シマトパンと言う呼称ではあるが、住所はSimatupangでなくKartini(Jl. R.A.Kartini No.10, RT.10/RW.4, West Cilandak, Cilandak)である。 Jalan Kartiniはジャカルタ北のGn.Sahari通りの対岸地区に沢山あるので、注意が必要だ。 昔の小生のシマトゥパン通りの紹介文では“ジャカルタ南部を東西に走る(高速の)外環通りでポンドクインダーとパッサルミングー通りの間の長い通りで、真ん中の高速を挟んでパッサールミング方向へ向かう道がそれで反対側のポンドックインダーに向かう側の道はカルティニ通りと名付けられている。”としていた。 その後この道は高速の完成に併せ、東西に長く伸びているが、現在のGoogleでは道の方向(南側北側)の区別でなくFatmawati通りとの交差点から東がSimatupangで西がKartiniである。従いBranzの住所記載は正しいが、呼称が間違いと言えば間違いである。 この外環通りの高速の完成はつい2~3年前であるので、高速がなかった時代か、着手した時代はSimatupangと呼ぶのが一般的であったのではないかと思う。だから先にブログしたFIF TowerからPondok Indah交差点に至るまでの、Siloam 病院もMercure Hotelも Swiss Belinnホテルも呼称は全てSimatupangである。そしてその後Kartiniが付加されたかどうかだろう。 この二つの通りの東西は西はBintaro Pesanggrahanであり、東はTanjung Timur を超えてJagorawi高速の所までも伸びている。 00-jalan-simatupangここの部分の高速JORR完成後に走った高速の写真は、1時間探したがパソコンから紛失していた。 代わりにこの写真を掲げよう。これも、現物は消えているかも知れない。貴重品だ。    00semprot-tribunTribunJakartaのネットからはこの写真で、これもコロナであったが、消防車で消毒している所は、ある意味で東京都へのレッスンを含んでいるだろう。

2020年4月28日 (火)

FIFグループの全て HondaかAstraか

JGCビルのずっと先にSouth Quarter Domeがあったが JGCビルも目印にするとちょっと離れている。それより東急Branz Simatupangがある。これについてもブログにしたはずであるがそれが、SQの手前隣である。 00fif-group-dsc_0051-2先日の写真には写ってないが写っていたのは通り過ぎの隣にあるMenara FIF グループである。 FIFとは初めて聞く名前なので調べるとPT Federal International Finance (“FIFGROUP”)があった。Federalと言えばアストラ輩下の 本田モーターであるが、以降これはと思った点を羅列的に記録していくこととする。 * 該社は1989年にPT Mitrapusaka Artha Finance として設立された。財務省の認可を得て設立されたノンバンク用である。 * ノンバンクとはリースなどであるが当時5種類あり、インドネシア語が珍しくブログにしたかなと思うが、挙げるとSewa Guna Usaha, Anjak Piutang dan Pembiayaan Konsumenなどで、急激に多くが設立されていた記憶がある。 * 当該社は1991年に名前を.PT Federal International Financeに変更、1996年に本田二輪車の割賦販売にフォーカスした。 * 2013年にFIFGROUPブランドを打ち出しOJK認可の企業として多目的融資、投資金融業、運転資金融資、オペレーションリース、シャリアー金融を行っている。 * 多目的融資はエレクトロ機器から家電、家具、ライフスタイル、ガジェッド、その他必要資金の融資も扱う。 * 株主は99.99%、PT Astra International Tbkであるので、経営幹部の創業性は薄いが、念のため数名挙げる。 * 監査役会長;Suparno Dasmin 1986年IPB卒、社長 Margono Tanuwijaya;1990年Sudirman大卒、取締役 Hugen Gozali 1993年UI卒で大体卒業後アストラ入社の出世組かな  * FIFのペイジを見ていたらFIONAさんが現れて質問に答えるというので、上記の幹部の繋がりなど聞いて見たがちょっと無理があった。(こちらの能力に)Fionaさんと言うのはA1の人かなぁ 知り合いが出来た感じでロボットでないことを望む * 最後にFIFをGoogle Mapで検索するとジャカルタだけでも17ケ所も出てくる。しかし本社はここMenara FIFだろう。

2020年4月24日 (金)

サウス・クオーター・ドーム by インティ・ランド

MTRが右側通行かどうか、  日本に居て調べるときに; Google Mapで終点Lebak BulusからFatmawatiへなぞって行くそのSimatupang 通り沿いに巨大な新しい建造物の一角があった。 00south-square-google名前を探るとSouth Quarterという。その画像は記憶にもあり、Intilandの開発物件であることが解った。 小生がまだジャカルタに居た頃建設開始、2018年には第一期を完工していたらしい。新しいデザインを誇っているかも知れないが小生の好みではない。 しかし行けるならどこでもいいし、いつか、行けるかもしれないので予行散歩をしてみよう。 Simatupang添いの道で記憶にあるのはまずSovereign Plazaと言う大きな新しいオフイスビルである。ここをFatmawatiの方に向かうとその道が合流する所から道はKartiniと名前を変えそしてToyota Auto 2000のビルがありそのちょっと先がSouth Squareである。 ここを超えていくとPondok Indah通りが入って来る、或いはLebak Bulusに行く交差点でそこにPoins Squareというモールがある。 前述のSovereignの道越えにはCilandak Town Squareと言うからこの辺りのMallはSquareと名付けるのが好きらしい。 正式にはSouth Square Domeと名ずけられているが普通名詞を押し通している。ここにTown Oneを真ん中にTower AとBが左右を守っている図である。ここがIntilandがシンガポールの政府系不動産投資のGICと共同開発しているところで第2段階にはあと二つのコンドミを立てることになっていたがもう建っているだろう。 うらやましい限りだ。しかし 小生の家の近くには広大な空き地があるが、もう30年も何かやっている。多分ゴミ焼却地にしかならないようだ。 上流の橋の架橋には15年以上もかかったので、それもあきれてブログにしたことがある。 00jgc-indonesia-dsc_0691思い出してマイアルバムで写真を探していたらSovereign Plaze の次の隣にJGCの看板が出た高いオフイスビルがあること、またSouth Squareを過ぎた隣にFIF Groupの看板のあるビルがあった。昔この通りのどこかにあったサクラレストラン+ホテルはどこだったろうか。GIICに同じ名前のがあるが、成功して移ったのであることを確信している。 追記:上記South Squareは South Quarterの間違いであるのに気付き急遽一部修正した。(5/1)

2020年4月14日 (火)

Blah-Bla-Braからraba痴漢へ

昔、ジャカルタでN君が良く使っていたブラブラブラと言う言葉は、何となく、何何々と、同じような言葉や数字を正確に言うのを省いた言い方だとは感じていたが、英語Nativeから聞いたことがなかったので今日まで放置していた言葉であった。今日Nic先生が使っていたのをネットで偶々聞いたので、辞書をひくとBraBraBraではBHの数々しか出てこない、時間は弄したが翌日の今、どうもBlah-Blah-Blahなることを突き詰めた。 Blahとは低迷したというような意味もある。そしてそのインドネシア語が気になったが此方は下の例文と共にBla-bla-blaであると確信した。 Mereka ngomong bla bla bla lalu tawa mereka meledak, sementara aku bengong ... この意味は“彼らは、何とか何とか何とかとか言った後、大笑いしたので、ちょっとの間私は驚いた。。” 話はちょっと違うが、dirabarabaと言うのを見つけたが、これもそのNic先生の別のプログラムの中で受け身形英語 get gloped(痴漢される)から、glopeを辞書で確かめて見た際、見付けたものである。diraba-rabaのrabaは触るであり、Laba-labaは蜘蛛である。まだ居るのかな。 00labalaba2r00de-spin-laba2-2010

2020年4月13日 (月)

ジャカルタのJardine Mathesonの影

ジャーディン・マセソンと言えば、幕末、開港横浜の一番地に事務所を構えた英国の貿易商社で、土佐の竜馬が道をつけ、長崎のグラバー氏の商売の柱ともなり、薩長の武器輸入を支援したことなど有名であるが、その前の1840年の阿片戦争も阿片を取り扱っていた同商会が戦争の引き金になったりもした。多くの小説でも出てくるが、ジャカルタに赴任して最初の段階で、 00hsbc-kalibesar-2008この名前を聞いたのは当時世界のトップ銀行でもあった香港上海銀行HSBCの存在であり、戦前より同行の事務所としていたオランダ時代の記念的建物の存在であった。  このカリブサールの建物群がこのブログを始めた動機となった素材である。それが現在も生き続けている世界有数のコングロマリットのひとつであり、次にそれを感じたのはアストラの挫折を受けて立った企業の存在であった。そして今一度調べてみるとスーパー・ヘローの受け皿もそうであり、多分タムリンの名門マンダリン・ホテルもそうだろうと思う。 00wtc-aug-15-12 念の為Jardine MathesonでGoogle Mapで見るとHSBCのあるWorld Trade Center(WTC)に PT. Jardine Lyoed Thompsonという会社があった。これもJardineの子会社である。このWTCがJardineのジャカルタの本拠になるものと思うがカリブサールのHSBCの両隣がシナール・マスのシナール銀行とBIIであったが、シナールマスのトレードセンターはITC(Interntional TC)ゆえ関係はなかろう。所で肝心のHSBCは創業者が別であり、Jadine Mathesonはその大口利用の顧客第1番であったであろうということだ。 wikiには“ジャーディン・マセソンなどが香港で稼いだ資金をイギリス本国に送金するために設立された銀行である。”と記している。尚現在はシンガポールに上場を移している。

2020年4月 9日 (木)

ウィキペディアのAPRAとAndiAZIZ

短いインドネシア連邦共和国時代に起こったAPRA事件とAndi Aziz事件は相次いで起こった似たような事件であるので混乱するが、この二つの事件(Peristiwa)はそれぞれ、Wikipediaに 解説があるのでそのまま要約しておこう。 APRA (Angkatan Perang Ratu Adil)とはインドネシア国家革命の間に設立された親オランダの民兵による軍隊である。この軍団は、1949年1月9日に統一デポ・スペシャル・トロエペン(KNIL特殊部隊基地)から復員した元DSTキャプテンのKNILレイモンド・ウェスターリングによって設立されたものである。軍団の名前は、トルコ系の「ラトゥ・アディル」の到来を予測したジャヤバヤの古代ジャワ語預言書の一部に由来する。 トルコの血を引くWesterlingは、自らを、インドネシアの人々を「専制政治」から解放する「ラトゥ・アディル:公正の女神」であると称したものである。ウェスターリングは、ジャワの人々が支配している、スカルノとハッタが率いる統一インドネシア共和国に反対し インドネシアにおける連邦国家の存在を守ろうとしたものでAPRAは、元共和党ゲリラ、ダルル・イスラム、アンボン、マレー、ミナハサ、復員KNIL、連隊専門部隊(KNIL特殊部隊連隊)、オランダ陸軍を含む18の多様な反共和党派からリクルートされ、1950年には、APRAは一連の農村自衛の一群から2,000人の兵員を擁する戦闘力に進化している。 スカルノの治世の影響力の増大に不満を持つウェスターリングは、ポンティアナックの連邦主義者スルタン・ハミド2世と共謀して1950年1月にクーデターを起こした。1950年1月23日、APRAは共和党政府に対するクーデターを開始した。彼らはバンドンを一時的に占領することができたが、ジャカルタとブロラを占領することができなかった。彼らはRIS内閣を打倒し、スルタン・ハミンクブオノ9世の国防相やアリ・ブディアルジョ官房長官を含む著名な共和党議員を暗殺する計画を立てていた。 このクーデターの失敗は、ウェスターリングの民兵組織の破壊につながり、彼はオランダへの逃亡を余儀なくされた。強力な指導者がいなくなり、APRAはついに1950年2月に機能を停止した。APRAの行動は最終的にスルタン・ハミド2世の拘束につながり、1950年8月17日にインドネシア共和国連邦の解散を加速させ、ジャカルタの中央政府が支配する統一国家に一変した。以上正式にはAPRAクーデター事件Peristiwa kudeta Angkatan Perang Ratu Adilと言われる。              Peristiwa Andi Azis(アンディ・アジス事件)は、東インドネシア国の存在を守ろうとし、インドネシア共和国の統一国家に戻ることに消極的な元KNIL幹部のアンディ・アジスによる反抗活動である。 アンディ・アジス自身、元KNIL将校で、APRISの将校に受け入れられその就任式は、東インドネシアの国軍司令官Ahmad Yunus Mokoginta,中尉によって取り行われていたものである。 アンディ・アジスは新しい政府のAPRIS(ABRI)の将校達は元KNILのメンバーが多いし、従い東インドネシアの領土の治安妨害に責任を負わなければならないと主張し行動に移したものである。 彼はAPRISから元KNIL兵士を分離移動させ、APRISの本部を攻撃し、モコギンタ中尉を含む多数のAPRIS将校を人質にした。 マカッサルを支配した後、彼は東インドネシアの状態を保存すべきであると主張したが、政府は、1950年4月8日、最後通告を行い、アンディ・アジスにすぐにジャカルタに出頭するよう命じた。最後通告を守らない場合、海軍ハン・トゥア号でマカッサルの街を爆撃すると予告し又、4 x 24時間以内に釈明することを要求したが、期限を無視された後、政府はアレックス・カウィララン大佐の下に軍隊を派遣した。そしてついに1950年4月15日、アンディ・アジスは、逮捕はされないというスリ・スルタン・ハメンクブワナとの約束のもと、ジャカルタに来たが、アンディ・アジスがジャカルタに来るや彼はすぐに逮捕された。 (wikiではこの後戦闘と言う項目で以下が付け加えられている。) この活動(編者注:その後の小活動か?)は、KNILによって妨害されたAPRISが、挑発し、結果衝突したAPRIS軍の活動から始まった。 1950年8月5日に第2戦闘が勃発したがAPRISが陸軍、海軍、空軍からすべての部隊を配備することにより首尾よく征服することが出来た。 June-001-2Ratu Adilは抗オランダのディポネゴロを守ったはずだが。。

2020年4月 7日 (火)

3人の英雄Adisucipto-Adisumarno-Abdulrahmanの綴り

インドネシアの独立戦乱のネットから何となく引っかかりファイルしていた文書にDakota VTというのがあり3つのAの英雄名が出ていた。 小生の英雄道路シリーズに登場させたはずだと、調査の手始めにAdisuciptoを調べると、どこにもない。綴り間違いを直し、次のAdisumarmoにも移って、始めてこれらの名前はジャカルタには無く、小生が集めた国内空港リストにあることが解った。しかし後一人の名前Abdulrahman Salehの名前がリストアップされてなく、又マイブログで検索をかけるが、これがまた出てこない。Abdulには大統領のWahidや、スカルノ・デモで斃れたHakimが居たし、SalehにはRaden SalehやChairul Saleh迄よぎってくるが極め付きはAbdulrahmanのRachmanにはRahmanの綴りもあり、又AbdulとRahmanを区切るものなどめちゃめちゃになったが更なる極め付きはこの人の名前はDr.が付いているので、兵士の時代に英雄視されたが、長じてはインドネシア大学の医学博士など教授になったのだろうと思ったが、思い当ってこの3人は兵士の時代にこのダコダ機墜落で名誉の戦死を遂げていることに唖然とした。結論を急ぐと:過ってのマイブログで紹介できないのでマイ小冊子から以下を拾う。 Dr.Abdul Rachman Saleh(1909年~1949年) ジャカルタ生まれ。オランダ系のMULOからマランのAMSを卒業後ジャカルタ医科専門学校で医師となりインドネシアの生理学に貢献した。後年インドネシア大学は「インドネシア生理学の父」なる称号を与えた。日本占領中はラジオ放送で世界にインドネシアのニュースを流した。1946年マディウンの空軍司令官に任じられ、航空術やラジオの学校を設立した。1947年アディスチプタと共にインドへ出張、帰りの飛行機がジョグジャに着地するときにオランダの航空機に射撃され、インド赤十字から入手した薬品と共に消失、彼もこの事件で死亡。1974年国家英雄となる。ここの通りには民族覚醒博物館(Museum Kebankitan Nasional)がある。訪問した2006年11月のある日、入り口には誰もおらず、大きな中庭を長屋的な教室が囲んでいるが、訪問者もなく閑散としていた。 以上補充するとせば、 * Abdulrahman SalehとAdisuciptoは英雄叙勲があったが、Adisumarmoはリストにはない。 昔からの印象だがインドネシアはこのリストの正式なものがなくまちまちである。小生のリストは2019年で188人である。 00kebangkitan-14-4* Jakarta市内の道路名になったのは上記のStoviaの民族覚醒記念館の前の道にあるDr.Abdul Rahman Salehだけで、Aisuciptoがバンドンにはある。 * 空港リストにない事はGoogleで発見したもので、Google Mapには、それはMalangにある事が解った。漏れの理由は小生のリストが国際空港だけであったからである。しかしGoogleではRachmanと綴っている。後の二人はAdi SuciptoがYogjakartaであり、Adi SumarmoがSoloである。 * Abdul Rahman Salehと同一名の検事総長がユドヨノ時代に居たことはマイブログでも出てきている。スハルト訴追関連であった。 * マイブログであと一つ“最高に混乱したインドネシア英雄ブログ”というのを書いていたことに気付きびっくりしたが、それはジャカルタ市長の父親 Abdurrahman Baswedanである。 * Abdulrahman とAbdulrachmanの綴り違い程度ではどれだけの違いがあるのかは知らないが、日常では気にしない問題だと思う。上記小冊子の記述は簡潔でいながら全てを正しく記述している。若い時代を思い出した。

2020年4月 6日 (月)

ウエスターリング、締めれば戦争論か

ウエスターリングのフルネームはRaymond Pierre Paul Westerlingで1919年8月31日にトルコでギリシャ人の母親とオランダ人の父親との息子として生まれている。 彼がオランダにやってくる前、彼はイスタンブールでオランダ軍に志願し、軍命令でイギリスで訓練を受けその後インドやセイロンで特殊技量の技官分野で働き、戦線に出ることもなく1945年9月になってメダンにKNILの将校として派遣されてきたのである。彼の訓練の範囲には非武装戦闘やサイレント殺人、ジャングル戦闘などがあった。 その頃インドネシアは独立宣言後緊張と混沌の中にあり、彼は防諜・警察ネットワークを組織しTerakanと呼ばれたギャング団を不正規手段により排除するなど有名であった。 Jakartaで親オランダや混血のインドネシア兵などを入れたデポ特殊部隊DSTの司令官となり、南セレベスの征定を命じられたのである。当時スラウエシのオランダはKNIL駐屯軍含め、崩壊直前であり、ジャワ出身の戦闘員が紅白旗の下、地元民テロに加わり、オランダ人や新オランダ中国人などが攻撃されていた。この征定はウエスターリング法といわれるやり方で、入手情報により疑いのある村は夜に包囲し、明け方から女子供を分け、テロ兵士をさらけ出させ、オペを行う方法であった。その後、コーランに宣誓させた村の指導者と警察部隊を組織化したと言う。 インドネシア当局はウェスターリングが約4万人の死者を出した責任があると主張しているが、ナッシールも当時プロパガンダがあったこと暗示しているし、オランの歴史家も、ウエスタリングによるものは400人であり、その後の引き継いだ2代の司令官が1,500人ずつという話をもある。この作戦は1946年12月に始まり、1947年2月迄続いた一連のもので、この時、南スラウエシ人民抵抗軍(ラスカル:LAPRIS)を結成しゲリラ戦で戦ったW.Mongisidiは逮捕され死刑となっている。一応、オランダ政府の公式的調査や一部の賠償もされている模様だ。ハーグ円卓会議の条約では戦時中の事件に対する特に政府命令による作戦の罪は問わないこととされているようである。 ウエスターリング自身は戦後オランダに帰国、インドネシア系フランス人の妻と定住し後に離婚・アムス移転し、最後は1987年に病没している。 4万人もの虐殺など、小生も今冷静に考えればあり得ない数字であったが、日本軍のポンチアナク虐殺事件もあった事からこの事件には飛びついた反省がある。上記記述も一つの報道資料の抜き書きであり、最後の締め方が解らない。なにせこの事件関連では 再々再々2 回もマイブログで触れているが毎回一言では締めきれなかったものである。 4万人がらみの過去の記述やニュアンスは事実化し過ぎであったことなどを謝るためのブログである。メナドにモンギンシディの記念像があった。片方にPierreとあったので驚いたがPierre違いのG30Sの犠牲者Tendean大尉であった。 Tendean-dan-monginsidi

2020年4月 4日 (土)

懐かしマヤンサリの唄

久しぶりにバンバン氏のニュースがあった。3月31日のKompas Grammediaが発信するサイトGidhotのCeleberityのペイジで、タイトルもNyaris Makan Roti Isi Cicakとセンセーショナルなものであった。ニュースに飛びついたものの実際は意味が解らず、よく読むと夫人のMayangsariが発した言葉で“危うく やもり入りのパンを食べるところだったわ”というものであった。 Maynagsari-bambang-trihatmo-2仕方なく続きを読むと、彼女はそう言ってまた眠るから後で起こしてと母親に捨てるように言いつけ不満をバラまいた。彼女は2000年始め、バンバン・トリハトモジョとの浮気の末に2度の結婚をしたことが伝えられており、実際その時、バンバン・トリハトモジョは離婚しておらず、ハリマの夫としての地位を持っていたようだ。この結婚でKhirani Siti Hartina Trihatmodjo.と名付けられた娘が生まれており、Halimahとの息子Panji Trihatomodjoはマヤンサリを殴りたくなったろうが、Halimahとの離婚は2010年に成立した。そしてマヤンサリとの結婚も2011年7月頃宗教法と州法の両方の点からも正式に結婚になっている。 というだけの記事であった。 二人のニュースはワンサカあり、幸せそのものだ。 マヤンサリと言えば、当時のインドネシアトップ・ポップ歌手のひとりで小生のNostalgia Song listに“Tiada lagi”というのが記録されていた。念のためYoutubeで検索すると、コレクションもありHarus Malam Iniも流行った歌だった。 Maynagsari-bambang-trihatmo-1

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