3人の英雄Adisucipto-Adisumarno-Abdulrahmanの綴り
インドネシアの独立戦乱のネットから何となく引っかかりファイルしていた文書にDakota VTというのがあり3つのAの英雄名が出ていた。
小生の英雄道路シリーズに登場させたはずだと、調査の手始めにAdisuciptoを調べると、どこにもない。綴り間違いを直し、次のAdisumarmoにも移って、始めてこれらの名前はジャカルタには無く、小生が集めた国内空港リストにあることが解った。しかし後一人の名前Abdulrahman Salehの名前がリストアップされてなく、又マイブログで検索をかけるが、これがまた出てこない。Abdulには大統領のWahidや、スカルノ・デモで斃れたHakimが居たし、SalehにはRaden SalehやChairul Saleh迄よぎってくるが極め付きはAbdulrahmanのRachmanにはRahmanの綴りもあり、又AbdulとRahmanを区切るものなどめちゃめちゃになったが更なる極め付きはこの人の名前はDr.が付いているので、兵士の時代に英雄視されたが、長じてはインドネシア大学の医学博士など教授になったのだろうと思ったが、思い当ってこの3人は兵士の時代にこのダコダ機墜落で名誉の戦死を遂げていることに唖然とした。結論を急ぐと:過ってのマイブログで紹介できないのでマイ小冊子から以下を拾う。
Dr.Abdul Rachman Saleh(1909年~1949年)
ジャカルタ生まれ。オランダ系のMULOからマランのAMSを卒業後ジャカルタ医科専門学校で医師となりインドネシアの生理学に貢献した。後年インドネシア大学は「インドネシア生理学の父」なる称号を与えた。日本占領中はラジオ放送で世界にインドネシアのニュースを流した。1946年マディウンの空軍司令官に任じられ、航空術やラジオの学校を設立した。1947年アディスチプタと共にインドへ出張、帰りの飛行機がジョグジャに着地するときにオランダの航空機に射撃され、インド赤十字から入手した薬品と共に消失、彼もこの事件で死亡。1974年国家英雄となる。ここの通りには民族覚醒博物館(Museum Kebankitan Nasional)がある。訪問した2006年11月のある日、入り口には誰もおらず、大きな中庭を長屋的な教室が囲んでいるが、訪問者もなく閑散としていた。
以上補充するとせば、
* Abdulrahman SalehとAdisuciptoは英雄叙勲があったが、Adisumarmoはリストにはない。
昔からの印象だがインドネシアはこのリストの正式なものがなくまちまちである。小生のリストは2019年で188人である。
* Jakarta市内の道路名になったのは上記のStoviaの民族覚醒記念館の前の道にあるDr.Abdul Rahman Salehだけで、Aisuciptoがバンドンにはある。
* 空港リストにない事はGoogleで発見したもので、Google Mapには、それはMalangにある事が解った。漏れの理由は小生のリストが国際空港だけであったからである。しかしGoogleではRachmanと綴っている。後の二人はAdi SuciptoがYogjakartaであり、Adi SumarmoがSoloである。
* Abdul Rahman Salehと同一名の検事総長がユドヨノ時代に居たことはマイブログでも出てきている。スハルト訴追関連であった。
* マイブログであと一つ“最高に混乱したインドネシア英雄ブログ”というのを書いていたことに気付きびっくりしたが、それはジャカルタ市長の父親 Abdurrahman Baswedanである。
* Abdulrahman とAbdulrachmanの綴り違い程度ではどれだけの違いがあるのかは知らないが、日常では気にしない問題だと思う。上記小冊子の記述は簡潔でいながら全てを正しく記述している。若い時代を思い出した。

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