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2020年4月 6日 (月)

ウエスターリング、締めれば戦争論か

ウエスターリングのフルネームはRaymond Pierre Paul Westerlingで1919年8月31日にトルコでギリシャ人の母親とオランダ人の父親との息子として生まれている。 彼がオランダにやってくる前、彼はイスタンブールでオランダ軍に志願し、軍命令でイギリスで訓練を受けその後インドやセイロンで特殊技量の技官分野で働き、戦線に出ることもなく1945年9月になってメダンにKNILの将校として派遣されてきたのである。彼の訓練の範囲には非武装戦闘やサイレント殺人、ジャングル戦闘などがあった。 その頃インドネシアは独立宣言後緊張と混沌の中にあり、彼は防諜・警察ネットワークを組織しTerakanと呼ばれたギャング団を不正規手段により排除するなど有名であった。 Jakartaで親オランダや混血のインドネシア兵などを入れたデポ特殊部隊DSTの司令官となり、南セレベスの征定を命じられたのである。当時スラウエシのオランダはKNIL駐屯軍含め、崩壊直前であり、ジャワ出身の戦闘員が紅白旗の下、地元民テロに加わり、オランダ人や新オランダ中国人などが攻撃されていた。この征定はウエスターリング法といわれるやり方で、入手情報により疑いのある村は夜に包囲し、明け方から女子供を分け、テロ兵士をさらけ出させ、オペを行う方法であった。その後、コーランに宣誓させた村の指導者と警察部隊を組織化したと言う。 インドネシア当局はウェスターリングが約4万人の死者を出した責任があると主張しているが、ナッシールも当時プロパガンダがあったこと暗示しているし、オランの歴史家も、ウエスタリングによるものは400人であり、その後の引き継いだ2代の司令官が1,500人ずつという話をもある。この作戦は1946年12月に始まり、1947年2月迄続いた一連のもので、この時、南スラウエシ人民抵抗軍(ラスカル:LAPRIS)を結成しゲリラ戦で戦ったW.Mongisidiは逮捕され死刑となっている。一応、オランダ政府の公式的調査や一部の賠償もされている模様だ。ハーグ円卓会議の条約では戦時中の事件に対する特に政府命令による作戦の罪は問わないこととされているようである。 ウエスターリング自身は戦後オランダに帰国、インドネシア系フランス人の妻と定住し後に離婚・アムス移転し、最後は1987年に病没している。 4万人もの虐殺など、小生も今冷静に考えればあり得ない数字であったが、日本軍のポンチアナク虐殺事件もあった事からこの事件には飛びついた反省がある。上記記述も一つの報道資料の抜き書きであり、最後の締め方が解らない。なにせこの事件関連では 再々再々2 回もマイブログで触れているが毎回一言では締めきれなかったものである。 4万人がらみの過去の記述やニュアンスは事実化し過ぎであったことなどを謝るためのブログである。メナドにモンギンシディの記念像があった。片方にPierreとあったので驚いたがPierre違いのG30Sの犠牲者Tendean大尉であった。 Tendean-dan-monginsidi

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