
インドネシアの高速道路については4回もシリーズで紹介論文を書いたが、施工主については触れることがなかった。
それは国営の Jasa Margaの独断場であったろうことは周知の事であったからである。ジャカルタではあちこちにそのマークがあったからでもある。そしてインドネシア最初の高速は1978年のJagorawi高速の筈であるが、この年はPT Jasa Marga (Persero) Tbkの社史によるとこの会社の設立日である。小生の論文では工事着手は1973年となっており、完成を持って運営会社となったのであろう。当然この時代の建設は外資がやったに違いないが、基礎工事はスカルノ時代にさかのぼり、ある地区などJalan Rusiaと呼ばれたりしているそうだ。
日本の触手もあろうがその詮索は止めて社史に戻ると1987年迄のジャカルタ内環高速JIRRと東西の運用開始は
1984 – Jalan Tol Jakarta-Tangerang (西へ)
1985 – Jalan Tol Prof.Dr. Ir. Sedyatmo (空港へ)
1987 – Jalan Tol Cawang-Semanggi (内環南線)
1988 – Jalan Tol Jakarta-Cikampek(東へ)
1989 – Jalan Tol Semanggi-Grogol ~Pluit (内環 西北)
であるが、
Jalan Tol Ir. Wiyoto Wiyono :15km 1987年~1990年 (19km Priok)(内環 東北)
Jalan Tol Pelabuhan 湾岸 :13km 1992年 Pluit-Tanjung Priok utara.(内環北海岸)
が出ていないことに気ずく。
そして1987年はBOTによる民間建設運用を開始した年である。その最初の会社がBUMNと民間が結成したコンソーシアムのCMNP (現在PT Citra Maga Nusaphala Persada Tbk:95年上場)であり、この二つの路線(合計32㎞)が建設運用したことになる。民間と言うのは、これこそスハルトの長女TututがPT. Citra Lamtoro Gung Persadaを率いて首班となったものでさる。このメンバーとしては;
Hutama Karya 、Jaya Konstruksi、Indocement、Krakatau Steel、TASPEN、そしてCitra Lamtoro Gung Persadaなどであった。
当時は西ドイツ、日本、韓国の建設業者がコンペティターであったが、父スハルトの一言で踏み出したと述懐している。
Ir. Y.H.Simanjuntakが作り出したBetonパネル工法で、インドネシア独力でやることにしたということだ。そういえば空港高速の名前になっているSedijatmoも高架土台建設の特許を編み出し日本含め数十か国に技術輸出を為したことも思い出す。
現在Lamtoro Gungは一寸、不明であるが、CMNPは隆々たる企業ではあるも、小生にはスハルトの影を見出すことは出来なかった。
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