Batik Kerisは大ファミリー?
以下のブログは汚職犯罪で裁判中のケースであったので一旦ホールドしたが、判決が延長になったので、待ちきれずとりあえず原稿のまま出しておこう。色々あるので少しずつ攻めて行くしかない.
Denice Tjokrosaputroという美人に出会った。この名前には記憶があり、すでにMichelle TjokrosaputroのBatik KrisとHanson 不動産のBenny Tjokrosaputroでブログにしている。
そして今、手にしたネットの記事は 将にその通りのタイトル“Sejarah Keluarga Tjokrosaputro: Dari Batik Keris sampai PT Hanson”であるのでこの女性の名前は出てないかと読み進んで見る。
Tjokrosaputro家のビジネスは1920年にソロのノノンガン通りでバティック業をは始めた時に迄遡る。今の世代から言えば4代前のKwee Tiong Djingが手芸バティックの小さな工場を作ったのだが、彼の子供のひとりにKwee Som Tjokをもうけた。彼が後にKasom Tjokrosaputroと名乗ることとなった。そしてそれが1947年Gaitiniと共に歩いて来た重要なマイルストーンであった(1947年設立?)。1960年代に両親から正式にバティック工場の遺産を得たが、1966年、社会全体が危機的な時代で、彼は華人の相互援助組織(Baperki)へ寄付したこともある。1965年以前、Baperkiは共産党に近いことで知られており、この組織が設立した教育機関は民衆の攻撃の的になったりしたが、それが現在のTrisakti大学である。
この記事は一人よがりのグジャグジャ感があり、オルデバルの時代、Kosomは社会での立ち位置とかにおいて不遇であったようだが、ビジネスは家族が進めていたようで後に、カソムの息子であるハンドコは、ビジネスの世界が成長しているため、ニュー・オーダー時代に生きたことに感謝の気持ちを感じていたとあり、Handokoがキーパーソンであったことが解る。1970年PT化した後、1974年、バティック・ケリスはソロにPTダン・リリスDan Lirisという繊維工場を設立し高級品といて世界20カ国以上に製品を輸出することに成功、サリナーデパートに売り場を出し、スハルトの奥さんの作品なども展示し、成功の頂きに上る頃、Kasomは豪州の病院で没した。
その後も長男?HandokoとHandimanが跡を継いだが、Handimanは2018年?に亡くなっている。彼らITBとフィラデルフィアでの学業を与えられた父に見習い、子供のBennyには金融を学ばせている。
以上がこの記事の全てであり、Denise女史も出てこないし、タイトルには似合わない(不十分)な内容であった。
その後の調査を重ねて出来るだけファミリーを拾うとBennyの弟にTeddy Tjokrosaputroがおり、あのRimoデパートの社長でいまは業転しているようだが、又の機会にしておこう。
そしてDenise TjokrosaputroはHandimanの娘であり、先にブログでも紹介した妹?のMichelle Tjokrosaptroni負けない実業家である。これも又の楽しみにしておこう。
楽しみにしておこうというのは逃げ口上で実は、このファミリーはどういう切り口で調べても分かり切った部分のみが断片的に出てくるだけで綴りもKasomだったりKasoemだったり叔父にHandiantoとかHardiantoが居たり、配偶者が引き継いでいる部分もあるので、こちらも調べるのに時間がかかるからである。
その上Benny氏は2.5兆もの国家未済問題で司直の手にあるようだ。 残念。写真はチョクロアミノト通りのBatik Kerisはまだるかな
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