デポックのオランダ人記念碑の論争
DepokにTugu Depokと言う記念碑があるようなのでGoogle Map調べるとTugu、Depokとされた。つまりTuguと言うのは塔と言う訳でなくジャカルタのTuguと同じように地区名とされた。その地区はPasar Minggu 通りを南下してイオンも超え、更に下るとインドネシア大学の広大なキャンパスを右に見る地区の左にMorgonda のMargo Cityがある東の地区である。ここには馴染みがないので色々検索しているとDepokには多くの塔や時計台や記念碑が多いことに気付く。
その一つにDepokの謂れに関わるCornelis ChasteleinのMonumenがある。それは上のMargondaを越えて更に南下して第2外環を超えると左(東)側がDepok Lama地区でこの西側を含めDepokの中心地になるようだ。
Depok駅もここにあり市役所は西側にあり目指すMonumen Cornelis Chasteleinは東側の地区にある。この像には、地区住民には愛される男ではあるが、その記念碑を立てることは行政府が反対をして来た状況がある。
この地区の住民はこのオランダ人がバリから連れて来た労務者であったが、彼らが耕作して来た土地はそのまま下付され又12人の使徒よろしく地区の先祖と言われるが、今のDepok市の中ではやはりムスリムが多いので植民地男の記念碑は論争の種になっていたのである。
この記念碑がある道はJl.Pemudaであるが、その先にCornelis Chastelein財団(YLCC)があり、大昔そこを訪れたことがあったがその時はこの記念碑の事は気が付かなかった。 今見ると記念碑は道の傍でなく奥まったHarapan Depokと言う病院の前庭にあるようだ。しかしこのYLCC自体が、コルネリス記念碑を世話し、戦い続けるコミュニティだったようで最初の記念碑はCCの没後200年の1914年6月28日に最初に建てられたが、1960年に破壊され、今回も2002年に計画して、完工に12年を要しているそうだ。
この労務者達への行為はヒューマニズムの立場からは問題ないはずで、又それがDepokの歴史的事実の一端であることも反対されるものではないが、多分記念碑に書かれたキリスト教徒という文言が問題だったようだ。結論はどうなったか、キリストという字(文章)を削ったかどうかは知らないが、ムスリムに(取って)はSensitiveだったのであろう。
写真は近所の教会
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