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2021年5月 4日 (火)

各地のPadepokanとDepokの謂れ

4月26日のブログでPadepokan ASAのTirto.idに関してPadepkanがDepokの謂れになることについては、書かねばならないとしていたが、もともとDepokの謂れはどれも同じことが定着していたと記憶しており、
Jun07-depok-016小生も2007年「もう一人のCornelis Chastelin」や「Cornelis Chastelinとデポック住民」というブログを書いていたが、この二つのブログには肝心のDepokの謂れについての説明も加えてなかった。今、慌てて追加すると;
このCornelis氏が所有した土地(Depok Lama地区)に関連してDe Eerste Protestante Organisatie van Christenen(最初のプロテスタントの組織)と言うオランダ語の記述があり、その頭文字から出来たとするものであった。しかし、その後の定説では、この外国語発生説を打ち消して、これよりも何百年も前の事になるのか、スンダ語派生のPadepokan説となっているのだ。
その誤解の大元はデポックが首都の隣接地としてエリート地区とするべく不動産業や新住民が何らかの謂れを探そうとしていた時代があったからで、多くの人がDepokになぞらえた略字などを探し、この外国語派生説が有力になっていたからであろう。
Depok という名前はこのような略語ではなく、話は長くなるが直接的には
2014-bogor-15618世紀、バンテンのスルタンがイスラームを広めるためにパデポカン(教育訓練の場)を設立したことが関連している。まずパジャジャラン王国(1030-1579年)の時代、人々はこの地域をDEPROKと呼んでいたが、その意味はマレー風のリラックスした座り型を意味するものであった。
この地域を巡回したシリワンギ王はチリウン河流域の丘の美しさにしばし座って見とれることがあった。その後の時代のバンテンのAgeng TirtayasaとPangeran Purbaも、しばしばチレボンに向かうので、ここで一休みするようになった。上記Padepokan を設置したのはPurba皇子の後継者のEmbah Raden Wujud である。Padepokangaその地を意味するようになり短くDepokと言うようにもなった。そしてその元はDeprokである。
Cornelisの地所はDepok Lamaで現在のDepokの1/10程度であるが単位となる行政地区になるのが1981年、市制となるのが1999年である。多くの人がジャカルタに通勤で来ていたのでジャカルタとばかり思っていた時代があったが、Depokはボゴールから独立したものであった。
オランダの有名な探検家であったAbraham van Riebeekは1730年にDepokは外国語派生ではないことを旅行記に記述してもいたのである。
PADEPOKANはこうしてイスラム修行の庵とかイスラム社会の教育のプサントレンの意味にも各地で使われているようで、中でも小生に取って特異なのはスンダ・Jawa以外でもバンカ島の東海岸沿い、スンゲイリアットに建つPadepokan Puri Tri Agung(参聖殿)と言う仏教、儒教、道教の礼拝所が珍しい。ハリムに向かう道傍にあるゴルフ練習場Pedepokan Pringondariもある.

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