コタ・デポックの成立
デポックはジャカルタ南部を拠点とするわれわれには短いのでデポックはジャカルタに帰属していたとばかり感じてた時代がある。東京大学が東京都にあるがごとくインドネシア大はジャカルタにあるとも感じていた。ジャカルタが州であるのでその下にジャカルタ北市とかプラウスリブ県とかデポック市などで成り立つ感じである。今のデポックは西ジャワ市に属し、バンドン市やボゴール市などと並列する市なのである。市になる前はボゴール県に属する郡(Kewedanaan県助役がいる Kecamatan)であったのでジャカルタに属したことはない。Kota Depokとして市となったのは1999年4月である。
このデポックの生まれに関わる歴史については”デポックの謂れ”など何度もブロクしているが、正しい理解の仕方から再度補足して更に身近に感じて見たい。
デポックは17世紀終わりにCornelis Chasteleinと言う商人が保有したという事で、そのDe Eerste Protestante Organisatie van Christenen(最初のプロテスタントの組織)の頭文字が一つの語源とされたりしている。この地区は彼が植民地政府から購入したものであるので独立した言わば国とも言えるものである。18世紀にはChasteleinが支配した 市民政府或いはgemeente bestuur(自治権を有する市議会 ?)の性格が納得されて行き、1871年に法的にも自治権が付与された。購入した土地は12.4km2の広さでそこを連れて来たバリからの奴隷を中心に開拓しジャカルタのPassar Mingguからgambirに至っていた。Chasteleinが亡き後、それらはそっくり奴隷たちの住民に任されていたようで1913年にはHet Gemeente Bestuur van Het Particuliere Land Depok(デポック特別市議会)の大統領を選挙で選んでおりその後、3代の大領領がいたと言う。市政府は現在のRumah Sakit Harapanが建つところにあったそうだ。1952年に最後の大統領マティス・ジョナサンによって、これら土地の行政権をインドネシア政府に引き渡され、更に1981年にはDepokの資格をKota Administratif Depokとし配下にPancoran Mas、Beji、Sukmajayaの三つの郡(Kecamatan)からなるものと整備されて、その後この下の17の村(desa)は23の町村(Kelurahan)になったが、上記の1999年4月のKota Depokの発足と言うのは従来の第2級地方都市から名称的にKotamaja Depokとなったものである。
DepokはUIの呼び込みや1976年からの国家住宅プロジェクト施行もありジャカルタと共に発展してきたが、当時の建物などは破壊されており、現在改めてデポックの歴史再開発運動が起こっている。自治体が行う再活性化プロジェクトは例えばバンドンのBraga地区やジャカルタのKota Jakarta地区の様に観光地区として再生する保存活動になりやすい。ジャカルタのKOTATUAの世界遺産申請は、開発のポイントをより手入れが簡単な20世紀以降に置いた商業化である為、ICOMOSの審査が困難になり2018年申請を取り下げている。Depok Heritageプロジェクトと言うものも、こうした植民地時代を破壊する反植民地化ではないもので有ってほしいがもう手遅れのような気がする。
小生のブログではイマニュエル教会や幾つかのカントリーハウスは紹介したが、まだまだ何かあるはずなので、泊り覚悟で探検に出て行かねばならない。
泊まるならこのホテル(Hotel Margo)が良かろう。ここにはかすかに植民地時代の名残が残っているようだが、それはオランダ人のカントリハウスがPondok Tjina地区にあったがそのPondok Tjina Landhuisのファサードである。
Chasteleinは当時の中国人の5つの悪性癖から中国人が手元の労働者を毒さないよう地区に入れないよう講じたため、中国人商人はcina人地区を作り住み着いた。この住居はオランダ人が建てていたものを或る中国商人(Lauw)が購入したものである。ホテルでは何の説明もないそうだ。
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