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2022年3月22日 (火)

アン・パトリシアの経営哲学

繊維の優良会社Pan Brothersについては昨年4月、マイブログ“繊維企業の富豪Setijo Ludijanto”で書いたが、その女性副社長に何か気が引かれたのでBiographyを紐解いて見た。
1_20220322152401Anne Patricia Sutantoで以降、アンと呼ぶが、アンはUniversity of Southern Californiaで化学の学部を就学後1992年、父親Andi Sutantoの合板の会社PT. Kayu Lapisに入社した所から、経営の道を歩むことになる。最初のインターン期間では彼女は未だ、未熟を感じ大学に戻ることを選び今度はLoyola Marymount Universityで経営管理のマスター取得した。インドネシアに戻って、今度はKayu Lapisの事業開発を担当した。 父の亡き後の父方の叔父とは問題を抱えたが、1年半後、母方の叔父がPT. Batik Kerisの席を紹介したが一旦断ったものの、6ケ月後、Batik KerisはPan Brothersを買収しそちらにアンが移る道があった。 この買収は覚書が事業協力とのみ記載されBatik Keris側のHandiantoとPan Brothes側は親会社PT. Panca Primaで署名されたもので、Pancaの保有株が残ったり、従業員の反対デモなどが起こったが、アンはこれらを何とか処理し、新たな企業風土を生むまでに数年かかった。ゆっくりだが 確実に世界企業を描いて進んだこの時以来、仕事には5つの原則:スマートワーク、ハードワーク、思いやり、誠実さ、忍耐力または持久力を身に付けた。
その後もアンはPan Broのビジネスで工場拡大、追加工場を新設しながら、問題含みのKayu Lapisの企業を配下に収め、留学時代からの夫Edmond Setiadarmaと共にホームウエアの会社を興し、本業以外でもアブラヤシのプランテーション、ココア、家具、ホームアクセサリーなど、情熱をもって多くを進めている。最近ではコロナ禍の中防護服やマスクの生産追加、輸出或いは南アフリカでの医療用防護服など生産の合弁会社を設立している。

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