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インドネシア歴史

2021年5月13日 (木)

インドネシアの国防大学UNHANの位置付け

Univ-pertahanan-2大学通りと評したディポネゴロのプルサダYAIの辺りの大学に ~7つもの大学があると言ったのでここから離れられないが、まさにYAIと隣り合った大学にUniversitas Pertahanan ―Salembaと言うのがあった。入口はサレンバ通りになるが正面から見るとバックに高いビルが3層に重なる写真を見てYAIを抜く高層の大学の存在に驚愕する。本部の住所もBogorなのでボゴール農科大学(Institut Pertanian Bogor,)かと勘違いするがPertanianでなくPertahananだから農業でなく国防である。いわば防衛大学なのである。スビアント国防大臣が拡張(軍事工学、薬学、医学部および数学と自然科学部の校舎として20ヘクタール)を約束していたので国立でもある。
しかし此処も一般人の入学を認めている。 昔、高校から防大に進学した友達もいたから日本の防大と同じ様なものかと思ったが、その上の大学院クラス(Magister)になるのであろうか。
Perguruan Tinggi Negeriというから師範学校を想像するが、確かにこの発祥はインドネシアでは陸軍参謀司令官学校(Seskoad).である。 ときの国軍司令官で、同時に陸軍参謀長ある Djoko SantosoがSyarifudin Tippe, S.IP中将にSesko卒業後の大学院にあたる戦略コースの大学設立の指令を与え 国防大臣Prof. Dr. Juwono Sudarsonoが設立の決定をしたものである。
Univ-pertahanan-1
Universitas Pertahanan IndonesiaでUNHANと略称され本部がBogorのSunterにある。ここSalembaは分校であり、裏の高層ビルは隣のコンドミ(Capitol Residence)であった。
こうしてこれら関係者が設立者として名を連ねているがSBYの子息AHYの名前もある。

思い出すのは日本の昔の陸大であるが、軍の統帥部スタッフ養成の学校はインドネシアではAKMILである。AKAMILは前身AKABRIでもあるが、これは陸空海共通の国軍が持つものである。インドネシアはSESKOとUNHANとAKMILの3段構えである。
Univ-pertahanan-2_20210513094901

2021年5月 7日 (金)

デポネゴロの一方通行の大学通り

ディポネゴロとサレンバ通りとの角地辺たりにYAIと表示された大学があり、いつ頃からか立派な高層ビルとなっているものに気が付いた。
Sep07-salemba-kopi-031-2
マイアルバムを紐解いて見ると何のことはない、自分の撮った写真は2007年の日付があるので、逆にこんなに長く気が付かなかったことに驚いた。この写真の右に赤レンガの古い建物が見える。それが古いオランダ時代の高等学校であり現在UKIの法学部も使用している長い建物である。
Uki-diponegoro
こちらも大きく変わっただろうと現在をGoogleで訪ねて見た。この歴史的建物は不思議と保存され、変わった事と言えばこの建物の間の樹木が大木になって視界を塞いでいる事だった。
小生の最後の写真は2008年のブログ ”UKI Diponegoroはオランダ時代のクリスチアン学校”の写真があるので、それをご覧いただこう。
Sekolah-diponegoro
そして今日は、その時アップ出来てなかった100年前の写真をアップしよう。 これはオランダの設計家ガイセルスが設計した1927年の写真である。

メンテンから来るこのデポネゴロ通りはこの辺りから一方通行になるが交差するチリウン河の手前で右手にPancasila大学に向かう道があったが、その入る道よりちょっと先のアイクマンの所で右に入れる道がある。この道がチリウン河に沿って行く珍しい場所であるが、これらのキャンパスの裏を通っているのでキャンパスは狭いだろうと思われる。この道はマトラマン(Matraman Dalam)に出て来て、又デポネゴロ通りに戻れるので一方通行でも問題ないことが解る。一方通行はチキニからの道が合流する所から始まるが、その手前にブンカルノ大学が有るので結局この通りの近くに5つ(或いは7つかも)の大学が有る学園通りだったのである。

2021年5月 4日 (火)

各地のPadepokanとDepokの謂れ

4月26日のブログでPadepokan ASAのTirto.idに関してPadepkanがDepokの謂れになることについては、書かねばならないとしていたが、もともとDepokの謂れはどれも同じことが定着していたと記憶しており、
Jun07-depok-016小生も2007年「もう一人のCornelis Chastelin」や「Cornelis Chastelinとデポック住民」というブログを書いていたが、この二つのブログには肝心のDepokの謂れについての説明も加えてなかった。今、慌てて追加すると;
このCornelis氏が所有した土地(Depok Lama地区)に関連してDe Eerste Protestante Organisatie van Christenen(最初のプロテスタントの組織)と言うオランダ語の記述があり、その頭文字から出来たとするものであった。しかし、その後の定説では、この外国語発生説を打ち消して、これよりも何百年も前の事になるのか、スンダ語派生のPadepokan説となっているのだ。
その誤解の大元はデポックが首都の隣接地としてエリート地区とするべく不動産業や新住民が何らかの謂れを探そうとしていた時代があったからで、多くの人がDepokになぞらえた略字などを探し、この外国語派生説が有力になっていたからであろう。
Depok という名前はこのような略語ではなく、話は長くなるが直接的には
2014-bogor-15618世紀、バンテンのスルタンがイスラームを広めるためにパデポカン(教育訓練の場)を設立したことが関連している。まずパジャジャラン王国(1030-1579年)の時代、人々はこの地域をDEPROKと呼んでいたが、その意味はマレー風のリラックスした座り型を意味するものであった。
この地域を巡回したシリワンギ王はチリウン河流域の丘の美しさにしばし座って見とれることがあった。その後の時代のバンテンのAgeng TirtayasaとPangeran Purbaも、しばしばチレボンに向かうので、ここで一休みするようになった。上記Padepokan を設置したのはPurba皇子の後継者のEmbah Raden Wujud である。Padepokangaその地を意味するようになり短くDepokと言うようにもなった。そしてその元はDeprokである。
Cornelisの地所はDepok Lamaで現在のDepokの1/10程度であるが単位となる行政地区になるのが1981年、市制となるのが1999年である。多くの人がジャカルタに通勤で来ていたのでジャカルタとばかり思っていた時代があったが、Depokはボゴールから独立したものであった。
オランダの有名な探検家であったAbraham van Riebeekは1730年にDepokは外国語派生ではないことを旅行記に記述してもいたのである。
PADEPOKANはこうしてイスラム修行の庵とかイスラム社会の教育のプサントレンの意味にも各地で使われているようで、中でも小生に取って特異なのはスンダ・Jawa以外でもバンカ島の東海岸沿い、スンゲイリアットに建つPadepokan Puri Tri Agung(参聖殿)と言う仏教、儒教、道教の礼拝所が珍しい。ハリムに向かう道傍にあるゴルフ練習場Pedepokan Pringondariもある.

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2021年5月 3日 (月)

デポックのオランダ人記念碑の論争

DepokにTugu Depokと言う記念碑があるようなのでGoogle Map調べるとTugu、Depokとされた。つまりTuguと言うのは塔と言う訳でなくジャカルタのTuguと同じように地区名とされた。その地区はPasar Minggu 通りを南下してイオンも超え、更に下るとインドネシア大学の広大なキャンパスを右に見る地区の左にMorgonda のMargo Cityがある東の地区である。ここには馴染みがないので色々検索しているとDepokには多くの塔や時計台や記念碑が多いことに気付く。
Rs-harapan-depokその一つにDepokの謂れに関わるCornelis ChasteleinのMonumenがある。それは上のMargondaを越えて更に南下して第2外環を超えると左(東)側がDepok Lama地区でこの西側を含めDepokの中心地になるようだ。
Depok駅もここにあり市役所は西側にあり目指すMonumen Cornelis Chasteleinは東側の地区にある。この像には、地区住民には愛される男ではあるが、その記念碑を立てることは行政府が反対をして来た状況がある。
この地区の住民はこのオランダ人がバリから連れて来た労務者であったが、彼らが耕作して来た土地はそのまま下付され又12人の使徒よろしく地区の先祖と言われるが、今のDepok市の中ではやはりムスリムが多いので植民地男の記念碑は論争の種になっていたのである。
Jun07-depok-015この記念碑がある道はJl.Pemudaであるが、その先にCornelis Chastelein財団(YLCC)があり、大昔そこを訪れたことがあったがその時はこの記念碑の事は気が付かなかった。 今見ると記念碑は道の傍でなく奥まったHarapan Depokと言う病院の前庭にあるようだ。しかしこのYLCC自体が、コルネリス記念碑を世話し、戦い続けるコミュニティだったようで最初の記念碑はCCの没後200年の1914年6月28日に最初に建てられたが、1960年に破壊され、今回も2002年に計画して、完工に12年を要しているそうだ。
この労務者達への行為はヒューマニズムの立場からは問題ないはずで、又それがDepokの歴史的事実の一端であることも反対されるものではないが、多分記念碑に書かれたキリスト教徒という文言が問題だったようだ。結論はどうなったか、キリストという字(文章)を削ったかどうかは知らないが、ムスリムに(取って)はSensitiveだったのであろう。
Jun07-depok-021写真は近所の教会

2021年4月16日 (金)

トリコラがモロタイやメナドの観光資源に?

ジョコウイがハルマヘラの飛行場式典に出かけたニュースから、モロタイの日米戦争記念館など現地政府が遺品などの整備展示をしていただいている話を書いたが、
Trikora-tugu-morotaiその日米戦争の記念館には イリアン開放作戦のTrikoraの記念碑もあった。トリコラ(Tri Komando Rakyat)と言うのは1962年イリアン開放に向けた国民の任務として① オランダのパプア国設立を失敗させること ②西イリアンに紅白旗をたなびかせること ③総動員の準備をすることの三大命令を下した。少将スハルトがマンダラ作戦を担当しソ連の武器で装備した大規模作戦であった。ムルダニがRPKAD落下傘部隊総司令官としてを指揮し6月には100名のメラウケ降下させた。この本気度作戦と脅しでオランダは米国の仲介に従うしかなく、7月対オランダ勝利宣言を経て1年後領有となるのであった。先日のSarwo Edhie Wibowoはこのあとの1965年のこの落下傘部隊の総司令官である。
このトリコラ作戦が何故モロタイなのかは思い当たる節は無い。多分にマンダラ作戦の象徴はアル―海戦などもあるが、パラシュート隊の降下作戦であるからであろうか。
日本軍のパレンバン降下作戦の印象も強く残っており、日本の元参謀に助言を求めた話もこれあり、その基地としてMorotaiが使用されたのではないかと思う。Morotaiには米軍がフイリピン奪回用の立派な滑走路もあり、尚且つこのマンダラ作戦の前に対スカルノの反乱(Permesta)が起こり、この時もこのMorotaiが降下作戦の場所であった。Monumen(Tugu)Trikoraはあと一つ、モロタイ島の西のスラウエシ島のメナド近くにも立派に仕上がった観光施設がある。こちらもトリコラ作戦時やPermesta作戦で使用された飛行場や作戦機DC-3 ダコタ機があった故らしい。Tugutrikoradipulaulembehbitung-1場所はメナドから東へ25km弱の対岸である。
他にもしやとGoogle Mapで検索すると国軍(TNI)本部のCilangkap(ゴルフ場)のTNI博物館(Museum Bhakti TNI)にもあるようだ。
161222bahangambar3001800x445ここは国軍歴史の全体の博物館故、全国の戦蹟・記念碑等の紹介でVideoを見たが説明の少ないサイトであった。
マンダラ作戦はトリコラの発出の日からオランダの協定案受諾の日(19 Desember 1961- 15 Agustus 1962)迄で、一方Permestは1958年2月18日の革命政府PRRI宣言(スラウエシは1957年3月:スムアル中佐のマングニ評議会のプルメスタ宣言)から61/9/19 シャフルディン・プラウイラネガラ(革命政府主席)の投降 を経て1962年1月のゲリラ掃討終了までである。

2021年4月15日 (木)

モロタイの高砂義勇兵

Googleのカメラ隊も立ったこともない辺境のハルマヘラの新空港に行ったジョコウイに敬礼し、折角の機会だからこの地の一つでもブログにしようと思ったが最後の日米会戦地モロタイは“遅すぎる降伏 沖縄とモロタイ”として過去に書いていたので読んでもらおう。
26974museum2btrikora2b25262bperang2bduniこの地には我が祖国台湾の高砂族の人が義勇兵として派遣されてきていたが、この人はあの最後の日本兵と言われた小野田少尉と同じ年に敗戦を越えて29年も逃亡生活を余儀なくされた元日本兵なのである。それは恥ずかしながらと戻ってきた横井さんに続く3人目として続いたものであった。
この3人を要点で挙げて見よう
* 横井庄一軍曹 (名古屋1919-1997) グアムで1972年発見、後サバイバル評論家 参院選にも
* 小野田寛郎少尉(和歌山1922-2014)比ルパンぐ 1974、後ブラジル開拓名誉州民 青年塾
* 中村輝夫(高砂族本名あり 1919-1979(59歳)  1974年12月モロタイ。
小野田さんは夫婦で日本会議などでも活躍し天寿を全うされたが後二人は尾を引いたのか病没である。漢名では李光輝と言われて、モロタイ現地で銅像もたつが、日本の賠償政策が良かったのか、最後は日本に帰る夢をみながらの往生であったという。(詳しい雰囲気はWikiをどうぞ)
モロタイ・ハルマヘラはマッカーサーのI Shall Return作戦の基地ともなった重要な地点で日本兵2000人に対し57,000の米軍で制圧したところで、どこかにマッカーサーの銅像(Zum-Zum島)も立っているはずだ。中村さんの銅像は多分建て替えられ、戦争モニュメンに、又立派な戦地博物館もある。島民有志の活躍と、州政府の観光資源化の努力がすごいようだ。新飛行場は出来たので、その気になれば行けるかもしれない。

2021年4月12日 (月)

英雄には未だのSarwo Edhie Wibowo

大統領への野心の見えるAHYは英雄候補のSarwo Edhie Wibowoの孫になる。
Sarwo-edhieこの辺りの名前は3文字ながらイニシアルにされてないがここだけかもしれないが3文字にしておこう。このSEWはG30S時代にRPKAD司令官として共産制圧に大活躍した人だがこの息子さんがPramono Edhie Wibowo(PEW)であり、娘さんがSBY夫人のAni Yudhoyono(Kristiani Herrawati)である。
昨日見掛けた記事でぎょっとした記事はこのSEWが2014年の英雄選出云々であったので、調べてみたが多分候補になったのであろう。この選出過程の2013年と言えばこの年まだSBYが大統領であり、息子さんのPEWも大出世し陸軍参謀長KSADを引退したばかりでニュースに出て、SESの英雄選出に対しての政府の承認が出たという話をしたものであった。
Halim-skyview-1彼は1965年10月1日の朝、チャクラビラからの要請もあったがスハルト側に付き、その日の内にハリム空港を奪還した重要な時期に重要な役割を担ったようだが、スハルト自身が英雄選出されてない状況下、この候補は成立しなかったのであろう。
敵前パラシュート作戦のベレー帽部隊のRPKADは有名であるが、それは彼の前任のムルダニ将軍の時代だったのであろうか。ムルダニはスハルトの地位を揺るがす人気があった人で正式名Leonardus Benyamin MoerdaniをLBMと言っていたか覚えがない。LB.Murdaniだったようだ。
又SEPは残念ながら昨年6月お亡くなりになっているが、その時のKSADはMoeldokoに譲っている。奇妙な取り合わせだ。

2021年4月 8日 (木)

Green Central City Candra Naya

何枚もダウンロードしたGreen Central Cityの写真を整理しょうと思ったが誰のプロジェクトかも思い浮かばなかったので調べると、ついこの間の昨年3月に“モデルングループの力”というブログでモデルングループの本社のあるビルであることなど紹介したばかりであった。
Novotel-candranayaそこはGajah Mada通りにあるバタビア時代のオランチナのカピタンが管理していた言わばグラブハウスのチャンドラナヤがあった所で歴史旧跡で有るので、取り壊しせずにモデルンが建てたコンドミが蔽いかぶさった(収容)形であった。昔は通りからこのナヤを確認できていたが最近の写真では簡単には証明が出来なくNovotel Hotelでどうなったか心配であった。

このナヤについては2012年7月20日に“Khouw家のCandranaya”で謂れを書いていたが、小生の、先を急ぐ癖でミス字多いので昨日修正したばかりである。昔のブログは最早修正できないのでコメントに入れることにして今日、このブログに至ったわけである。再度このナヤを写真観察すると、このナヤはNobotelビルが中に収容しているのではなくNovotelホテル側のビルと後背にもコンドミが二つ有るようで、このビルの間が空間になっており、ここにナヤがあるのだと観察できた。
Candra-naya-green-city二つ前と後ろのビルの間は左右端が3階建てくらいの回廊が塀の役割と屋上散歩道を兼ねていると見た。ここでモデルンと言う会社はPT. MODERNLAND REALTY TBK [MDLN]であるが、今、選択的デフォルト(一部の債務不履行あり)のため、取引停止中であり、あと一つあるPT. MODERN INTERNASIONAL TBK [MDRN]は赤字続きの様である。続ける元気がなくなった。
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2020年11月13日 (金)

今年のインドネシア英雄スカントアミン

Img03011月11日インドネシアの英雄の日に因んで今でも毎年英雄叙勲が行われる。今年は6人、もうだいぶ種は尽きたろうと思うと意外やムハマッド・アミンスカントがいる。どちらもマイブログに書きまくっているので、とっくに英雄だと思っていたが、リストにないのでやっと番が回ってきたことになる。
スカントは初代警察庁長官で警察ミュージアムとかあちこちに銅像が立っている。ムハマッド・アミンは青年の誓いの詩を作った人で、後一人、その時国家を作曲したスプラプト氏もまだ英雄ではないようだ。6人は以下の通り。
1. Sultan Baabullah, Provinsi Maluku Utara
2. Machmud Singgirei Rumagesan, Provinsi Papua Barat
3. Jend Polisi Purn, Raden Said Soekanto Tjokrodiatmodjo, Kapolri Pertama RI
4. Arnold Mononutu, Provinsi Sulawesi Utara
5. Sutan Mohammad Amin Nasution, Provinsi Sumatera Utara
6. Raden Mattaher Bin Pangeran Kusim Bin Adi, Jambi
これで194人になる。200人の潮時も来年か。

2020年8月11日 (火)

遅れた英雄表彰のブントモ。。。.達。 

2009年12月20日の大昔に、「忘れられていた本人ブントモ」というブログを書いたが、英雄の日として記念祝日となった1945年11月11日の主人公のブントモ自身の国家英雄叙勲が永く、無いまま、無視されていたが、それが2008年になってやっと叙勲されたことで、{忘れられていた本人}と表現したものであった。
勿論その日の英雄的演説は当時のスラバヤ市長も有名であったので、そのことも別のブログにしたこともあるが、それはブントモ叙勲が遅れた言い訳にはできない。 そしてそのブログにはアダムマリクもタンマラカもまだ英雄ではないと書いていた。又そのブログでは“昨日本屋で見た”と書いているがそれは、きのう本屋でという意味であったが、その本は今や手持ちがない。あるのは1994年出版のBiografi Pahlawan2 Indonesiaというものでこれにはマリクもタンもストモもない。 いやSutomoはあったが、それはDr Sutomoで別人の伝記乍ら写真がブントモであった。
少なくともこの1994年版には漏れもあるし、遅れは確かにブントモ(2008)とマリク(1997)とスカルノハッタ(2012)で、その本に漏れていた(未収録)はタンマラカ(1963年)であった。。
スカルノハッタは正式には2012年になって叙勲されたようだが、秘密を言えば一度1986年にも叙勲があり、これも正しいとすれば2回叙勲されたことになる。気になるのはスハルトがどうなるかで有るが、或いはファトマワティは一人2000年に叙勲があると言うことだ。

そして全てアップデートすれば2019年迄とすれば全体で186人である。ふと目に入った昔のマイブログで小生が間違ったかと修正の筆を執ったが、当時参照した本の間違いと言えばそういう事だったので安心したが、補足しておこう。