無料ブログはココログ

ウェブページ

今さら日イのはてな

インドネシア歴史

2020年1月22日 (水)

独立戦学徒玉砕の父 イスマン

WijayaのGraha Purna Wikaのスカント大将の銅像をマイアルバムで探しているとき、同じような胸像を見つけた。建物の名前か写真の下の方にあり、部分的にas Ismanと読めるが、マイアルバムのフォルダーWijaya地区に入っているが全く心当たりがない
00mas-isman-dec-15-4どうにかWikipediaとGoogle でその胸像の人はMas Isman、建物の名はWisma Mas Isman、そしてその建物/胸像が建つ通りはWijayaではなくメンテンのCik Ditiroと解かった。昔の郵便局本部の記念遺蹟建物を残した六星ホテル(Hermiage)のあるCilacap通りとMoh Yamin通りの中間にあるが、今は大分荒れているようだし、日本人が利用できる建物ではないようだ。 
念の為マイブログを調べると2015年の国家英雄叙勲記事があり、この年6人が選ばれた中の一人で、当時のマイブログには“東ジャワ出身、TNI・ゴルカールの政治家”とのみ紹介している。

彼は1924年生まれ1982年歿しているが、オランダと戦った独立英雄である。1945年独立戦争では東ジャワの学徒部隊Tentara Republik Indonesia Pelajar(TRIP)を創設して戦った。戦後、1956年―58年中佐で首相官邸を守る部隊を指揮、その後ラングーン、バンコック、カイロで大使を務め、1978年にはDPR/MPRの議員にもなりKosgoro設立に尽力した。彼の独立戦争はマラン市にTRIPの記念碑として見ることが出来るが、TRIP戦捷通りには35人の学徒の墓地もある。ジョコウイ内閣での青年スポーツ大臣を務めたハヨノ・イスマンは彼の息子である。そうだ。
タイトルは少し小説化しすぎかもしれない。

2019年12月17日 (火)

ヌール・アリの真実

 

昨日の続きでもNoer Alieのもう少し詳しい伝記があった。
http://sosok-tokoh.blogspot.com/2016/05/biografi-singkat-kh-noer-alie.html
肝心の部分を要約してみよう。
日本占領時代(1942〜1945)はヌールは日本軍の宗教管理事務所に名前が知られているので十分注意を怠らなかった。1942年、マトラマンの日本軍州境管理事務所に呼ばれ、そこの長はメッカで知り合ったハジ・イナダと言う日本人で日本軍の協力を要請してきたがヌールはプサントレインの仕事があると拒否し、イナダもアジアラヤに抗しないことでプサントレンの継続を認めてくれた。ヌールはインドネシア青年が何時かは自国の為戦うこともあり得べしと兵補や警防団に協力し又弟子をPETAに参加させたりした。独立宣言の後彼は地方委員会(KNID)に選ばれ又9月19日のイカダ(現モナス)大集会には大衆動員をかけた。その後はブカシのヒズボラー大隊司令官になっている。スラバヤの英雄の日となった戦乱の中ブントモと共にラジオ放送で連呼し、キアイ・ハジの名前で有名になった。
1947年7月オランダの軍事侵攻の際はヨグジャのシモハルジョ将軍から西ジャワのゲリラ活動を命じられカラワンにあるヒズボラ・サビリラ(MPHS)本部の司令官になりました。
彼らはインドネシアの独立運動がまだ存在していることを示すために、各地で戦いを挑み、Rawagede、Karawangでは村の家々や木々に紅白の小さい旗をかけさせ、オランダはこれを怒り、これはインドネシア国軍によるものだとその長ルーカス・クスタリョ少将を捜索にかかり、住民をとらえ、最後には431名もの虐殺に走ってしまっていた。
云々という程度で、詳しいようで詳しくない。

 

Rawagede少し調子よくなった小生のGoogle Map ではKarawangインターチェンジからRengasdenklokに向かう途中にモニュメントがある。Pool 遊園地もあり、ベカシ・カラワンにゆかりがあれば一度は行くべきだろう。
Noer Aliの道の先はChairul Anwarの名前の道があるが、ここからも相当遠い場所になる。
その詩人の事についての小生のブログは2011年9月22日 (木)
「ハイリル・アンワルのKarawang-Bekasi叫びの勝利」に次の様にある。
モナスの西側にタムリンの胸像があったが、北側にはChairil Anwarの胸像がある。 インドネシアの詩人であるが文学分野でオランダとの戦いを挑んだAngkatan 45の代表である。彼が謳った詩Karawang Bekasiと言うのがあるがこれはオランダ軍によるRawagedeにおける村民431名の虐殺事件を糾弾する歌である。
オランダ軍は反戦指導者LUKAS Kustarioを追ってRawagedeにやってきたが村民はKustarioの所在を明かさず、結果1947年12月9日オランダ軍は男の村民431名を銃殺した。64年も前の事であるが2008年になって残された未亡人10人がオランダ政府を告訴し、今年9月15日にその判決で勝利を獲得したのである。
モナスのアンワールの胸像にはこの詩が刻まれている。
“Kami yang kini terbaring antara Karawang – Bekasi Tidak bisa teriak 'Merdeka' dan angkat senjata lagi” 我々は今カラワンとブカシの間に散華し、ムルデカを叫ぶことも武器を取ることもできない。
その村に行くと死亡した431名のお墓がびっしり並んでいる。村民は実際Kustarioの所在を知らなかった事が後で判明したとのことが勝利の判決となったのであるが、知っていたとしても明かさなかっただろうと名誉を維持している。理由如何でオランダが正当化される問題ではないし431名に十分な賠償をすべきである。 

 

本件に関しては2012年5月10日 (木)「ブカシの英雄Noer とChairil」にもあり、なんと3回目であった。

 

2019年12月10日 (火)

ベカシの英雄ノエール・アリ

ベカシの英雄ヌール・アリ

 

NoorやNurに英雄が居るかと過去ブログを見るとNoel Aliがまず出てくる。打ち捨てられた高速道路のBecakayuを紹介する時、その線路添いの道がJl. Noel Aliであると簡単に済ましていたので、これ幸いと調べに掛かった。
例によりWikipedia (https://id.wikipedia.org/wiki/Noer_Alie)には半ペイジほどでこれなら簡単だと取り掛かることにする。それによると:「キアイ・ハジ・ノアー・アリエは、1914年7月15日に西ジャワ州ブカシで生まれ、1992年1月29日に西ジャワ州ブカシで死去したインドネシアの国家英雄である。2006年の大統領令第085/TK/2006、2006年11月3日で国家英雄に叙せられた。彼はアンワル・ビン・ラウとマイムナ・ビンティ・タルビンとの間の息子で、ブカシ周辺の何人かのウラマから宗教教育を受けた。1934年、彼はハジを実行し、メッカで宗教科学を深め、6年間そこに定住しました。」何故かこれだけである。2014-tambung-21 それでは始まらないので英雄センター(https://pahlawancenter.com/kiai-haji-noer-alie/)の説明に詳細を求める。追加説明を引用すると :
* 1937年ハッサンバスリとブタウイ学生寮を設立、その後日本軍の占領で、日本軍の力が及ばないブカシにプサントレンを設ける、
* 独立後はブカシ地区の地方役人(KNID)に任じられ、ジャティネガラなどで軍TKRとラスカルラキャット(人民野戦軍)を組織、青年たちの訓練に従事
* オランダの第一次侵攻の際は ヒズブラー・サビリラー司令本部と共にチカンペックで新しいゲリラ部隊を組織。
* レンビル協定の時代はノールの部隊はバンテンへ聖戦、或いはチパユンでオランダ軍に追われ危うく捕まりそうになったが逃走に成功。
* 1949年、ノールはマシュミ党のジャテイネガラ地区或いはブカシの役員におされ、1955年の選挙では彼の地区のマシュミ党は最高の投票を得、中央議会のメンバーとなる。
* 1965年G30S/PKIが起こるやイスラムの組織の同僚と協力し、特にブカシ地区で活動を強化した。
以上の貢献により2006年国家英雄に叙されると言うだけで、いやに簡単である。今一つとして
イスラムの全国紙でもある新聞Republikaの記事KH Noer Ali, Sang Singa Karawang-Bekasi
(https://www.republika.co.id/berita/dunia-islam/islam-digest/19/02/12/pmsv1k458)
から又追加すべき事項だけをピックアップする。
 ヌールは1940年に故郷に戻りAt Taqwaプサントレンを先ず設立した。At Taqwaは宗教教義を学びながら支配者に抗する拠点でもあった。
 日本占領時代も彼の意気は落ちることはなかった。日本は最初日イを旧友だと言いふらしていたが残酷さはオランダと変わることなく、更に戦局に従いインドネシア人の同情を求める方向に流れた。一つの例はPETA(郷土防衛隊)である。ヌールは軍事訓練を受けることはいずれインドネシアががそれを必要とするときが来ると見たから、これらPETAや兵補、警防団に多くの若者がが参加することを止めることはなかった。
 ヒズブラーは日本軍の時代からのものであったが、ヌールはヨクジャにスディルマンを尋ねた時の結論はインドネシア正規軍のフリルを付けずゲリラを継続することを求められ、このゲリラ戦はオランダ人を欺き効果を挙げた。
 ジャカルタのヒズボラ・サビリラ本部の時代だろうか、彼はオランダ軍に恐れられていたが、捕まえるのはウナギを取るのほどに難しいと言われ「カラワン・ブカシのウナギ」というニックネームが付けられたのだ。
 その年の年末に、オランダはついにインドネシアの主権を認めた。ノエルは人民の戦士たちを解散させ、彼自身はAt Taqwa 財団を通じた教育の世界に捧げることになる。

 

この引用紹介文も長くなったが、小生の気持を明かすと、この人こそ、詩人アンワールが詠った「カラワンーブカシの間」の惨劇のオランダ抗争の主人公の一人で、その惨劇は2013年だったかオランダ政府が初めて謝罪した戦争犯罪であり、小生はその現場に立った時があるような気がする、それにしてもなぜ英雄叙勲がこれほど遅れているかの詮索が続くだろうと言うことだけ述べて今日は終わりにしておこう。
但し道路名となった地区が英雄本人の出生地であるという数少ない例(これしか知らない)00grand-wisataである。

 

2019年12月 9日 (月)

青空はためくパスキブラカ

 

19941anggotapaskibrakamembawabenderapusa Paskibrakaパスキブラカという単語も何語だろうかと、戸惑うがインドネシアでは独立に由来する由緒あることばである。 毎年、独立記念日の大統領宮殿での式典でテレビに釘付けにされるが、あの国旗掲隊Pasukan Pengibar Bendera Pusakaの凛々しさと翩翻とはためく紅白旗に胸躍らせる青少年も多いことだろう。
1945年の独立宣言の日の国旗掲揚はスカルノの自宅でファトマワティが手作りした国旗を掲揚したが、翌年は大統領は独立戦時下のジョクジャにおり、側近の一人、少佐(海)フセイン・ムタハルに、国旗掲揚儀式の執り行いを命令し、ムタハルはヨクジャにいた、インドネシアの全地域から代表を選ぶよう手配したがその時はどうにか5人を選ぶしかなかったようである。それでも5の数字はパンチャシラである。オランダ撤退後はジャカルタの大統領宮殿にスカルノの親衛隊とか家中で執り行われたようだが、スハルトは66年に再度ムタハルに組織化を命じ現在の形が出来上がっていった。掲揚隊はこの宮殿の他、政府レベルでは州知事と県知事で組織されたが基本は核となる国旗隊8人と随走隊17人に護衛隊45人が付く形をとる。
00sampurnq-aug17 8月17日のジャカルタ市内の状況は何度もブログで特集したが紅白の国旗を縦横に、大胆な発想で大型旗や小型の連楊旗、しめ縄ねじりや三角旗や五色旗迄町中を飾り立てる。日本は日章旗をgoogoleすると日支放棄になるほど見掛けることもないが、インドネシア人のクリエーテブには感心する所である。紅白であるので日の丸の色と同じで有るが、関係はなく又オランダの国旗から青を引きちぎったマジャパヒットホテル事件も思い出すが、インドネシア人はそんなことは一切口葉にも出ず、この色はマジャパヒット時代からの国の色であるそうだが、それだけでも又数刻を要する。

 

2019年12月 5日 (木)

Den HaagのHamid 二人

 

昨日のAbdurrahman Baswedanから始まった混乱の原因は、3人の共通項でその一つがアラブの名士として取り上げた、アラブ系のインドネシア人であると言うことであったが、あと一つ言い遅れたのに3人は共通の時代であると言うことがある。
まずこの3人は生まれと死亡の間に3人がそろっている期間が62年もありそれは
Sultan Hamid で1913年~1978年で、
Hamid Algadriが 1912年~1998年で、
Abdurrahman Baswedanが1908年~1986年である。

 

Konferensimejabundarkmb時代特徴的には特に独立宣言のあとシャフリルが未だ力を持っていた時代で特に前2者はハーグの円卓会議に参加していたということである。Sultan Hamid II世はユリアナ女王の補佐官の一人にも任じられた親オランダの人物で、所謂傀儡国群(16ケ国・地域)BFO代表で自身は西カリマンタン独立国代表である。共和国側はハッタを長とするルム・スポモなど計10人の代表団で、彼らと同行した顧問団の一員にHamid Algadri がおり、軍事問題が担当であった。二人は知己ではあったが政治的には意見を異にしていた。シャフリルもハミッドⅡとの出会いの最初から対立感を覚えたが後には昏倒を救われたこともあり、Hamid侯の優しさと勇敢に感銘し仲を一転している。ウエスタリング事件関連で連座させられたことがあり汚点となったが、最初のRIS内閣で国務相となり、或いはその時代にガルダー国章を製作している。ユリアナ女王への忠誠と祖国愛の谷間にに悩んだいわば勤王の志士だ。彼については過去両手に及ぶほど書いているが、Hamid Algadriについてはつい最近11月17日の “ゴジェックの家系 Makarim & Hamid"で紹介した通りである。Hamid侯のフル名前や家系ににはArgadriが出てくるので別人かどうかを確認するのが今日の主目的である。
円卓会議の状況を示す古写真はアップした気もするが。。。再度アップした。

また過去記事へのリンクにも成功したし、文章原稿のコピー(従来はドラッグで失敗続き)にも通常エディターにより成功、将来またブログの一本化が展望できるようになってきつつある。

 

 

 

2019年12月 3日 (火)

最高混乱したインドネシア英雄名ブログ

最高混乱したインドネシア英雄名ブログ

昨日のBaswedanバスウエダンの記事を書きながら色々検索するうちに、興味のポイントがあちこち移動するので、頭が混乱し最高に達して危険を思えるほどであった。

その一つは、バスウエダンの紹介記事の中の「首相やイスラム政党マシュミ総裁を歴任し」という言葉で、バスウェダンは情報(Penerangan)副大臣は務めたが、首相などはあり得ぬしと、疑問詞を打ったが、この文章では、これは後ろに出てくるナッシール首相の修飾詞であることに気が付いた。次に独立準備委員会といえばBPUPKIと省略されジャカルタ憲章など署名した9人は有名であるが、バスウェダンは初めて聞く名前であった。疑問に思ったがBPUPKIは審議会でありメンバーとしては62人もいる事を一昨日知ったばかりである。

62人の中にバスウェダンもいたとしても事実としては納得できる話であった。

次に頭に去来したのは、タイトルの「アラブの名士」と言う言葉であるが、それならGoJekの創設者の若き富豪Nadiem氏(ジョコ大統領に教育文化大臣を要請され)の義父Hamid Algadriをもって小生はアラブ社会の名士と決めていたからである。決めていたと言いながら、それは10日も前で且つ、それを忘却しているのでそこに至るのに大変な時間を要した。

さらにHamidにはもう一人のHamidIIがおりそちらはハーグ会議の東インドネシア代表であり、此方もアラブ系だ。彼はポンチアナックのスルタンであり、インドネシア共和国の国章のデザインをした人でも有名である。実は小生は、この3人の中ではHamid-IIのみ知っている名前であったが、残念ながら英雄にはなれていない。

そしてこの二人は、二人ともハーグ円卓会議に参加していたようで、初めて知るその参加規模に驚いたわけだが、逆に英雄になっているのはBasuwedanだけなのである。

所で現市長のBaswedan は来年の大統領選に立候補しそうな勢いであるが、直系で英雄になれた話はなかった筈で、チョクロアミノト親子ですらまだだし、スハルトも英雄になれない狭い門なのだと何故かブロックする気持ちがあった。 ハルソノチョクロアミノトは親子で英雄ではなかったかと調べ廻ったが、やはりそれはなく、この親子はジャカルタの地名に親子二人、別々の所にあったのを最近知ったばかりであったからである。

混乱の最後はBaswedanの名前はAbdurrahmanアブドゥルラフマン Baswedanで、似たような名前を34日前、調べ廻ったことがあったことを思い出し、又それがどこでなんであったか探し回ったことであった。結局それは、東洪水運河添いのBasuki Rachmatラーマット通りやクブンシリーのメンテン寄りの道Arief Rachmanラーマンのブログに思い当たり混乱も終了したと思ったが、その道の先にAbdurrahman アブドゥルラフマンSalehと言う本命に行き当たった事であった。

そうは云いながらこうした思い違いや似たもの探しがこのブログを続かせる力になっているのだと慰めることにした。

タイトルは適切でなく、混乱しているのは小生の頭である。Terkacau didlm kepalakuではどうかな

2019年12月 2日 (月)

2018年インドネシア国家英雄 バスウエダン

Pahlawan Indonesia 2018 

先のブログで2019年の国家英雄6人をマラミス、カハールムザカールなどBPUPKIメンバー3人を代表させ紹介したが、もう候補者も枯渇するのではないかと言う気持ちとマラミス等未だだったのかという交差する気持ちに陥ったが前年の2018年も紹介してないなと過去ブログをしらべると昨年は、マシュミやPETAカスマン・シンゴディメジョのみ、偶々紹介してはいた。

2018年の全員の名前の紹介はしてなかったので今ここで挙げると:以下の6人であった。

Brigjen KH Syam’un
Muhammad Noor

Kasman Singodimedjo

Depati Amir

Agung Hajjah Andi Depu

Abdurrahman Baswedan

シンゴディメジョやノールの名前は歴史の本に登場するので少しは有名であるが、バスウエダンは現ジャカルタ市長の祖父だとか言うので、その時は驚いたことを思いだす。(それがブログにすることが遅れた理由か)そしてその時保存した日本語の紹介記事を今、アップすると以下の通りである。タイトルは「アニス氏祖父 国家英雄に アラブ系社会の名士」で「アブドゥルラフマン氏(1908~86年)は東ジャワ州スラバヤ生まれのアラブ系3世。新聞記者を経て1934年インドネシア・アラブ党を結党。アラブ系として初めてジャワの正装を着用した写真を公表し、「祖国はインドネシア」と宣言する「アラブ系青年の誓い」を発表。華人やプリブミ(土着のインドネシア人)とともにインドネシア民族の団結を唱えた。
 日本軍政期はジャワ奉公会会員、中央参議院議員を歴任。独立準備委員会、中央国民委員会を経て独立直後の46年、暫定政権発足時に情報副大臣就任。インドネシア独立の国連承認に向け外交活動に参加した。後に首相やイスラム政党マシュミ総裁を歴任し、スカルノ大統領と対立したイスラム指導者ナシール氏の側近としても活躍した。(蓜島克彦)」

[ジャカルタ今昔はてな]のブログで書いた今日のイスラム大デモ集会はどうなったろうか アニス氏が参加したニュースアラートは飛び込んできたが。。。何となくイスラムの有利性が又出てくるのか。。。

 

 

 

 

 

2019年11月30日 (土)

未だいるインドネシア独立英雄

 

 

未だいる独立英雄

今年もいつの間にか英雄の日が過ぎて、遅ればせながらになるが、去る11月8日ジョコウイ大統領が6人の国家英雄叙勲式を執り行っていた。 もう種も尽きるだろうと、前から思っていたが、ここにきてまだまだ大勢いる。今年は6人で昨年も6人だったので大量叙勲である。今までに1959年から開始して188名が合格しているから年あたり3人である。

 

今年の6人の中にBPUPKI委員経験者が3人もいる。この独立準備調査会から、最後にインドネシア憲法或いはパンチャシラ憲章に証人としてサインしたのは9人いたが、それはムザキールとマラミスだが、一般委員は62名いたと言うので、その中の一人がマシュクルだろうか。今日は6人の名前リストだけにしておこう。

 

  • Ruhana Kuddus
  • Sultan Himayatuddin Muhammad Saidi
  • M.Sardjito Prof. Dr. Sardjito
  • Abdul Kahar Muzakir :BPUPKI、rektor Universitas Islam Indonesia (UII) pertama.
  • AA Maramis Alexander Andries (AA) :BPUPKI、KNIP
  • KH Masykur BPUPKI

2019年11月22日 (金)

高貴な善行 Budi Kemuliaan

00budi-kemuliaan

Budi Kemuliaan、なんとなく気になる名前であり、その名前の道を通るたびに、見るたたずまいに惹かれるものがあった。インドネシア中央銀行の本部のタナアバン寄りの敷地に接してある。今まで人名かと思っていたが実際は病院の名前である。或いは病院創設の財団であろうから洒落た名前で“高貴な善行”の意味である。

それには歴史があり、カルティニの書簡集「暗黒を超えて光明へ」が発行された1911年、その本でインスピレーションに打たれた婦人たちによりつくられた団体である。同時に教育機関も作られたが現在も続いている。婦人科と小児科が専門でその様な病院はRSIAIbu & Anak)と略される。

それがこの項を取り上げるのが2019年にずれた訳であるが、その2019年の522日、おりしも大統領選・総選挙の結果に反対のプラボウォ支持者らがデモそ行い、首都のタナアバン、サリナ前、スリピなどで警察と衝突する騒ぎに、6人死亡、警察は首都外からの扇動者あったとして257人を逮捕した事件があったが、その時運び込まれた病院の一つがここで、その数46人にも達した。 その後そのフォローのニュースは少なく、うやむやになったのであろうか。小生は日本でそれは知ったが、今のジョコウィ大統領になって何故か人命が軽視されるインドネシアの逆行を感じているが、それは小生だけだろうか。

2019年11月21日 (木)

Ridwan Rais アンペラの英雄

 

00tugu-tani2010janこの名前の道路がモナスの東側に南のメンテンラヤから接続する短い部分にある。ウイキペディアの解説を読むうちに翻訳の筆が止まった。

半場、独立の英雄とばかり思っていたこの名前は14歳の少年の名前であった。

それはスカルノのあがきの土壇場で全国の学生たちも三つの要求で立ち上がり、最高潮に達した663月のデモの最中に流れ弾に当たって亡くなったものだ。  

その一連の最初の悲劇の224日のデモの中で亡くなった学生のArief Rachman Hakim は有名であったが小生にとってはその陰に隠れていたか今日まで忘却の果てにあったようだ。

宮殿前でArief が銃弾に斃れた後、政府がKAMIの解散を決定しキャンパスを閉鎖したが、フスニ・タムリンをリーダーにKAPPI (インドネシア学徒青年行動連合)が結成された。リーダーたちは3月末までには逮捕されたのでその開放を求めたデモは一層激しくなりその衝突の中330日、Ridwanの命が絶たれたのだ。 

Ridwan Rais通りの南端は、農夫の像の三角地帯の北側に曲がる所まででその三角地帯の南側はArief Rachman Hakim通りとなずけられている。正式にはRidwaはIkhwan Ridwan Raisと言い、彼らはPahlawan Ampera アンペラ(国民苦難の声)の英雄と称されている