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今さら日イのはてな

インドネシア歴史

2022年3月25日 (金)

バイラワの巨神の意味

先日、コロナで2年の間休止していたジャカルタのインドネシア博物館ガイドが再開されたそうで、小生も何時かキャッチしていた古代石仏像をここに乗せるチャンスを得たわけだ.
Quicchote_bhairawaその像はBhairawaバイラヴァと呼ばれる、伸長4.5メートルもの巨大なもので、博物館の裏中庭に向かう奥に沢山放り出されたような多数の古代石像の真ん中に,中庭を睥睨するかの様に立っている。台座には8個の頭蓋骨があり、それを踏みしだいており、手にも頭蓋骨から作った酒壺や小刀を持っているもので1877年にスマトラのある泥田で発見されたものだ。
地上にはみ出た部分もあって、農民たちは農機具を磨く砥石代わりとかに使っていたという。マラユのアディティヤヴァルマン王(1347-1375)の像だとも言われていた。
Iconology美術史学ではヒンドゥと仏教の混合(シンクレティズム)が見られるそうだ。顔の表情がヒンドゥのシバ神、ヘアースタイルが仏教、カラのデザインのベルトとか意味があるが、詳しい説明はガイドにお願いしたらいいだろう。小生は手元のガイドブックをスキャンしておこう。
Bhairava
尚、カトマンズの空港が正式にはゴウータマ・ブッダ国際空港というが、愛称がなおバイラワ空港と言うそうだ。


2022年2月26日 (土)

コタ・デポックの成立

デポックはジャカルタ南部を拠点とするわれわれには短いのでデポックはジャカルタに帰属していたとばかり感じてた時代がある。東京大学が東京都にあるがごとくインドネシア大はジャカルタにあるとも感じていた。ジャカルタが州であるのでその下にジャカルタ北市とかプラウスリブ県とかデポック市などで成り立つ感じである。今のデポックは西ジャワ市に属し、バンドン市やボゴール市などと並列する市なのである。市になる前はボゴール県に属する郡(Kewedanaan県助役がいる Kecamatan)であったのでジャカルタに属したことはない。Kota Depokとして市となったのは1999年4月である。
Rs-harapan-depok_20220226194001
このデポックの生まれに関わる歴史については”デポックの謂れ”など何度もブロクしているが、正しい理解の仕方から再度補足して更に身近に感じて見たい。
デポックは17世紀終わりにCornelis Chasteleinと言う商人が保有したという事で、そのDe Eerste Protestante Organisatie van Christenen(最初のプロテスタントの組織)の頭文字が一つの語源とされたりしている。この地区は彼が植民地政府から購入したものであるので独立した言わば国とも言えるものである。18世紀にはChasteleinが支配した 市民政府或いはgemeente bestuur(自治権を有する市議会 ?)の性格が納得されて行き、1871年に法的にも自治権が付与された。購入した土地は12.4km2の広さでそこを連れて来たバリからの奴隷を中心に開拓しジャカルタのPassar Mingguからgambirに至っていた。Chasteleinが亡き後、それらはそっくり奴隷たちの住民に任されていたようで1913年にはHet Gemeente Bestuur van Het Particuliere Land Depok(デポック特別市議会)の大統領を選挙で選んでおりその後、3代の大領領がいたと言う。市政府は現在のRumah Sakit Harapanが建つところにあったそうだ。1952年に最後の大統領マティス・ジョナサンによって、これら土地の行政権をインドネシア政府に引き渡され、更に1981年にはDepokの資格をKota Administratif Depokとし配下にPancoran Mas、Beji、Sukmajayaの三つの郡(Kecamatan)からなるものと整備されて、その後この下の17の村(desa)は23の町村(Kelurahan)になったが、上記の1999年4月のKota Depokの発足と言うのは従来の第2級地方都市から名称的にKotamaja Depokとなったものである。
DepokはUIの呼び込みや1976年からの国家住宅プロジェクト施行もありジャカルタと共に発展してきたが、当時の建物などは破壊されており、現在改めてデポックの歴史再開発運動が起こっている。自治体が行う再活性化プロジェクトは例えばバンドンのBraga地区やジャカルタのKota Jakarta地区の様に観光地区として再生する保存活動になりやすい。ジャカルタのKOTATUAの世界遺産申請は、開発のポイントをより手入れが簡単な20世紀以降に置いた商業化である為、ICOMOSの審査が困難になり2018年申請を取り下げている。Depok Heritageプロジェクトと言うものも、こうした植民地時代を破壊する反植民地化ではないもので有ってほしいがもう手遅れのような気がする。
00-depok-gkib-jun07-depok-023小生のブログではイマニュエル教会や幾つかのカントリーハウスは紹介したが、まだまだ何かあるはずなので、泊り覚悟で探検に出て行かねばならない。
Hotel-margo_20220228183601泊まるならこのホテル(Hotel Margo)が良かろう。ここにはかすかに植民地時代の名残が残っているようだが、それはオランダ人のカントリハウスがPondok Tjina地区にあったがそのPondok Tjina Landhuisのファサードである。
Chasteleinは当時の中国人の5つの悪性癖から中国人が手元の労働者を毒さないよう地区に入れないよう講じたため、中国人商人はcina人地区を作り住み着いた。この住居はオランダ人が建てていたものを或る中国商人(Lauw)が購入したものである。ホテルでは何の説明もないそうだ。

2022年2月 9日 (水)

Menteng 37がMansion la Fonteineに

Defrontein
Hermitageホテルの開発者としてPIKKOとWijaya Wisesa Realtyは、別途Apartemen Menteng 37を共同開発する計画である。添えられた写真の建物は大きく、この場所にはふさわしくないが昔のアルヤドゥタホテルの近くではある。(チキニ通りへの入口)
Menteng 37とは、このMenteng Raya通りに面するインドネシア闘争記念館 Gedung Joang 45をMenteng 31と呼ぶ習わしがあるから、ここをMenteng 37と言っても知る人は、その背景を知る。
Woohhuis-cikini-2
小生は2007年に「Menteng No.37はHans Selaiman氏のもの」で書いているが、オランダ時代のWoonhuis住宅で市のHeritageに指定されている。

計画では6,000m²の土地に26階建て119戸の住宅であるが、85億から195億ルピアの値段も付いているので、建設は進んでいるのであろう。
Defrontein-google
Google Mapではまだ建設着手前の写真しか入手できない。写真には新しい名前だろうか Dafontein Mentengと名前が付けられている。
Dafonteinとはなにか、17世紀、寓話集を書いたフランスの詩人Jean de la Fontaine(ジャン・ド・ラ・フォンテーヌ)だろうか。少なくともオランダ系綴りであるが、ホテルのブランドかも知れない。

2021年11月13日 (土)

2021年英雄の日と映画の日

毎年の事乍ら、英雄の日はいつも気が付かないうちに過ぎてしまう。今年は、今日は3日後だが実際は昨日ブログ原稿を書いて、このタイトルの文書が保存されているのだが、中身が無くなっていた。ゴミ箱も探したがお手上げだ。

今年の英雄は4人、インドネシアの国家英雄は全てインドネシアの独立への貢献した人が顕彰される。今年はインドネシア映画の父と仰がれるUsmar Ismailに与えられた。彼はインドネシアによる最初の映画を作りそのタイトルは「シリワンギの長い行進」だったので、独立戦争に関連する。そうすると「ジョクジャの6日間」のスハルトも入ると思うのだが。今年の中にはVOCの時代の地方の戦いの闘士二人を含んでいる。Usmar Ismailについてはラスナの映画センターも訪問しブログ「インドネシアの映画の日」にしたことがある。
今年の4人の名前だけでも挙げて置こう。
  Tombolotutu, Provinsi Sulawesi Tengah
  Sultan Aji Muhammad Idris, Provinsi Kalimantan Timur
  Haji Usmar Ismail, Provinsi DKI Jakarta
  Raden Arya Wangsakara, Provinsi Banten
偶々、今朝、ユーチューブを見ていたらインドネシアの英雄の日の動画があった。Upacara Hari Peringatan Pahlawan Nasional Indonesia 2021という、正に3日前の動画である。年ごとに立派になって行くカリバタの英雄墓地(TMP)で行われた25分の行事である。ここにはみっちり独立戦に斃れた人々が鉄兜を胸に埋葬されており、大統領以下閣僚6人が参列したものである。海行かば見たいな曲が流れる中での黙祷(3分?)、大統領の献花、宗教大臣の祈祷、等々が続いた荘厳なものであった。 今年で合計198人の英雄となった。 下は2007年の写真。
00tmp-kalibata-2007

2021年5月13日 (木)

インドネシアの国防大学UNHANの位置付け

Univ-pertahanan-2大学通りと評したディポネゴロのプルサダYAIの辺りの大学に ~7つもの大学があると言ったのでここから離れられないが、まさにYAIと隣り合った大学にUniversitas Pertahanan ―Salembaと言うのがあった。入口はサレンバ通りになるが正面から見るとバックに高いビルが3層に重なる写真を見てYAIを抜く高層の大学の存在に驚愕する。本部の住所もBogorなのでボゴール農科大学(Institut Pertanian Bogor,)かと勘違いするがPertanianでなくPertahananだから農業でなく国防である。いわば防衛大学なのである。スビアント国防大臣が拡張(軍事工学、薬学、医学部および数学と自然科学部の校舎として20ヘクタール)を約束していたので国立でもある。
しかし此処も一般人の入学を認めている。 昔、高校から防大に進学した友達もいたから日本の防大と同じ様なものかと思ったが、その上の大学院クラス(Magister)になるのであろうか。
Perguruan Tinggi Negeriというから師範学校を想像するが、確かにこの発祥はインドネシアでは陸軍参謀司令官学校(Seskoad).である。 ときの国軍司令官で、同時に陸軍参謀長ある Djoko SantosoがSyarifudin Tippe, S.IP中将にSesko卒業後の大学院にあたる戦略コースの大学設立の指令を与え 国防大臣Prof. Dr. Juwono Sudarsonoが設立の決定をしたものである。
Univ-pertahanan-1
Universitas Pertahanan IndonesiaでUNHANと略称され本部がBogorのSunterにある。ここSalembaは分校であり、裏の高層ビルは隣のコンドミ(Capitol Residence)であった。
こうしてこれら関係者が設立者として名を連ねているがSBYの子息AHYの名前もある。

思い出すのは日本の昔の陸大であるが、軍の統帥部スタッフ養成の学校はインドネシアではAKMILである。AKAMILは前身AKABRIでもあるが、これは陸空海共通の国軍が持つものである。インドネシアはSESKOとUNHANとAKMILの3段構えである。
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2021年5月 7日 (金)

デポネゴロの一方通行の大学通り

ディポネゴロとサレンバ通りとの角地辺たりにYAIと表示された大学があり、いつ頃からか立派な高層ビルとなっているものに気が付いた。
Sep07-salemba-kopi-031-2
マイアルバムを紐解いて見ると何のことはない、自分の撮った写真は2007年の日付があるので、逆にこんなに長く気が付かなかったことに驚いた。この写真の右に赤レンガの古い建物が見える。それが古いオランダ時代の高等学校であり現在UKIの法学部も使用している長い建物である。
Uki-diponegoro
こちらも大きく変わっただろうと現在をGoogleで訪ねて見た。この歴史的建物は不思議と保存され、変わった事と言えばこの建物の間の樹木が大木になって視界を塞いでいる事だった。
小生の最後の写真は2008年のブログ ”UKI Diponegoroはオランダ時代のクリスチアン学校”の写真があるので、それをご覧いただこう。
Sekolah-diponegoro
そして今日は、その時アップ出来てなかった100年前の写真をアップしよう。 これはオランダの設計家ガイセルスが設計した1927年の写真である。

メンテンから来るこのデポネゴロ通りはこの辺りから一方通行になるが交差するチリウン河の手前で右手にPancasila大学に向かう道があったが、その入る道よりちょっと先のアイクマンの所で右に入れる道がある。この道がチリウン河に沿って行く珍しい場所であるが、これらのキャンパスの裏を通っているのでキャンパスは狭いだろうと思われる。この道はマトラマン(Matraman Dalam)に出て来て、又デポネゴロ通りに戻れるので一方通行でも問題ないことが解る。一方通行はチキニからの道が合流する所から始まるが、その手前にブンカルノ大学が有るので結局この通りの近くに5つ(或いは7つかも)の大学が有る学園通りだったのである。

2021年5月 4日 (火)

各地のPadepokanとDepokの謂れ

4月26日のブログでPadepokan ASAのTirto.idに関してPadepkanがDepokの謂れになることについては、書かねばならないとしていたが、もともとDepokの謂れはどれも同じことが定着していたと記憶しており、
Jun07-depok-016小生も2007年「もう一人のCornelis Chastelin」や「Cornelis Chastelinとデポック住民」というブログを書いていたが、この二つのブログには肝心のDepokの謂れについての説明も加えてなかった。今、慌てて追加すると;
このCornelis氏が所有した土地(Depok Lama地区)に関連してDe Eerste Protestante Organisatie van Christenen(最初のプロテスタントの組織)と言うオランダ語の記述があり、その頭文字から出来たとするものであった。しかし、その後の定説では、この外国語発生説を打ち消して、これよりも何百年も前の事になるのか、スンダ語派生のPadepokan説となっているのだ。
その誤解の大元はデポックが首都の隣接地としてエリート地区とするべく不動産業や新住民が何らかの謂れを探そうとしていた時代があったからで、多くの人がDepokになぞらえた略字などを探し、この外国語派生説が有力になっていたからであろう。
Depok という名前はこのような略語ではなく、話は長くなるが直接的には
2014-bogor-15618世紀、バンテンのスルタンがイスラームを広めるためにパデポカン(教育訓練の場)を設立したことが関連している。まずパジャジャラン王国(1030-1579年)の時代、人々はこの地域をDEPROKと呼んでいたが、その意味はマレー風のリラックスした座り型を意味するものであった。
この地域を巡回したシリワンギ王はチリウン河流域の丘の美しさにしばし座って見とれることがあった。その後の時代のバンテンのAgeng TirtayasaとPangeran Purbaも、しばしばチレボンに向かうので、ここで一休みするようになった。上記Padepokan を設置したのはPurba皇子の後継者のEmbah Raden Wujud である。Padepokangaその地を意味するようになり短くDepokと言うようにもなった。そしてその元はDeprokである。
Cornelisの地所はDepok Lamaで現在のDepokの1/10程度であるが単位となる行政地区になるのが1981年、市制となるのが1999年である。多くの人がジャカルタに通勤で来ていたのでジャカルタとばかり思っていた時代があったが、Depokはボゴールから独立したものであった。
オランダの有名な探検家であったAbraham van Riebeekは1730年にDepokは外国語派生ではないことを旅行記に記述してもいたのである。
PADEPOKANはこうしてイスラム修行の庵とかイスラム社会の教育のプサントレンの意味にも各地で使われているようで、中でも小生に取って特異なのはスンダ・Jawa以外でもバンカ島の東海岸沿い、スンゲイリアットに建つPadepokan Puri Tri Agung(参聖殿)と言う仏教、儒教、道教の礼拝所が珍しい。ハリムに向かう道傍にあるゴルフ練習場Pedepokan Pringondariもある.

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2021年5月 3日 (月)

デポックのオランダ人記念碑の論争

DepokにTugu Depokと言う記念碑があるようなのでGoogle Map調べるとTugu、Depokとされた。つまりTuguと言うのは塔と言う訳でなくジャカルタのTuguと同じように地区名とされた。その地区はPasar Minggu 通りを南下してイオンも超え、更に下るとインドネシア大学の広大なキャンパスを右に見る地区の左にMorgonda のMargo Cityがある東の地区である。ここには馴染みがないので色々検索しているとDepokには多くの塔や時計台や記念碑が多いことに気付く。
Rs-harapan-depokその一つにDepokの謂れに関わるCornelis ChasteleinのMonumenがある。それは上のMargondaを越えて更に南下して第2外環を超えると左(東)側がDepok Lama地区でこの西側を含めDepokの中心地になるようだ。
Depok駅もここにあり市役所は西側にあり目指すMonumen Cornelis Chasteleinは東側の地区にある。この像には、地区住民には愛される男ではあるが、その記念碑を立てることは行政府が反対をして来た状況がある。
この地区の住民はこのオランダ人がバリから連れて来た労務者であったが、彼らが耕作して来た土地はそのまま下付され又12人の使徒よろしく地区の先祖と言われるが、今のDepok市の中ではやはりムスリムが多いので植民地男の記念碑は論争の種になっていたのである。
Jun07-depok-015この記念碑がある道はJl.Pemudaであるが、その先にCornelis Chastelein財団(YLCC)があり、大昔そこを訪れたことがあったがその時はこの記念碑の事は気が付かなかった。 今見ると記念碑は道の傍でなく奥まったHarapan Depokと言う病院の前庭にあるようだ。しかしこのYLCC自体が、コルネリス記念碑を世話し、戦い続けるコミュニティだったようで最初の記念碑はCCの没後200年の1914年6月28日に最初に建てられたが、1960年に破壊され、今回も2002年に計画して、完工に12年を要しているそうだ。
この労務者達への行為はヒューマニズムの立場からは問題ないはずで、又それがDepokの歴史的事実の一端であることも反対されるものではないが、多分記念碑に書かれたキリスト教徒という文言が問題だったようだ。結論はどうなったか、キリストという字(文章)を削ったかどうかは知らないが、ムスリムに(取って)はSensitiveだったのであろう。
Jun07-depok-021写真は近所の教会

2021年4月16日 (金)

トリコラがモロタイやメナドの観光資源に?

ジョコウイがハルマヘラの飛行場式典に出かけたニュースから、モロタイの日米戦争記念館など現地政府が遺品などの整備展示をしていただいている話を書いたが、
Trikora-tugu-morotaiその日米戦争の記念館には イリアン開放作戦のTrikoraの記念碑もあった。トリコラ(Tri Komando Rakyat)と言うのは1962年イリアン開放に向けた国民の任務として① オランダのパプア国設立を失敗させること ②西イリアンに紅白旗をたなびかせること ③総動員の準備をすることの三大命令を下した。少将スハルトがマンダラ作戦を担当しソ連の武器で装備した大規模作戦であった。ムルダニがRPKAD落下傘部隊総司令官としてを指揮し6月には100名のメラウケ降下させた。この本気度作戦と脅しでオランダは米国の仲介に従うしかなく、7月対オランダ勝利宣言を経て1年後領有となるのであった。先日のSarwo Edhie Wibowoはこのあとの1965年のこの落下傘部隊の総司令官である。
このトリコラ作戦が何故モロタイなのかは思い当たる節は無い。多分にマンダラ作戦の象徴はアル―海戦などもあるが、パラシュート隊の降下作戦であるからであろうか。
日本軍のパレンバン降下作戦の印象も強く残っており、日本の元参謀に助言を求めた話もこれあり、その基地としてMorotaiが使用されたのではないかと思う。Morotaiには米軍がフイリピン奪回用の立派な滑走路もあり、尚且つこのマンダラ作戦の前に対スカルノの反乱(Permesta)が起こり、この時もこのMorotaiが降下作戦の場所であった。Monumen(Tugu)Trikoraはあと一つ、モロタイ島の西のスラウエシ島のメナド近くにも立派に仕上がった観光施設がある。こちらもトリコラ作戦時やPermesta作戦で使用された飛行場や作戦機DC-3 ダコタ機があった故らしい。Tugutrikoradipulaulembehbitung-1場所はメナドから東へ25km弱の対岸である。
他にもしやとGoogle Mapで検索すると国軍(TNI)本部のCilangkap(ゴルフ場)のTNI博物館(Museum Bhakti TNI)にもあるようだ。
161222bahangambar3001800x445ここは国軍歴史の全体の博物館故、全国の戦蹟・記念碑等の紹介でVideoを見たが説明の少ないサイトであった。
マンダラ作戦はトリコラの発出の日からオランダの協定案受諾の日(19 Desember 1961- 15 Agustus 1962)迄で、一方Permestは1958年2月18日の革命政府PRRI宣言(スラウエシは1957年3月:スムアル中佐のマングニ評議会のプルメスタ宣言)から61/9/19 シャフルディン・プラウイラネガラ(革命政府主席)の投降 を経て1962年1月のゲリラ掃討終了までである。

2021年4月15日 (木)

モロタイの高砂義勇兵

Googleのカメラ隊も立ったこともない辺境のハルマヘラの新空港に行ったジョコウイに敬礼し、折角の機会だからこの地の一つでもブログにしようと思ったが最後の日米会戦地モロタイは“遅すぎる降伏 沖縄とモロタイ”として過去に書いていたので読んでもらおう。
26974museum2btrikora2b25262bperang2bduniこの地には我が祖国台湾の高砂族の人が義勇兵として派遣されてきていたが、この人はあの最後の日本兵と言われた小野田少尉と同じ年に敗戦を越えて29年も逃亡生活を余儀なくされた元日本兵なのである。それは恥ずかしながらと戻ってきた横井さんに続く3人目として続いたものであった。
この3人を要点で挙げて見よう
* 横井庄一軍曹 (名古屋1919-1997) グアムで1972年発見、後サバイバル評論家 参院選にも
* 小野田寛郎少尉(和歌山1922-2014)比ルパンぐ 1974、後ブラジル開拓名誉州民 青年塾
* 中村輝夫(高砂族本名あり 1919-1979(59歳)  1974年12月モロタイ。
小野田さんは夫婦で日本会議などでも活躍し天寿を全うされたが後二人は尾を引いたのか病没である。漢名では李光輝と言われて、モロタイ現地で銅像もたつが、日本の賠償政策が良かったのか、最後は日本に帰る夢をみながらの往生であったという。(詳しい雰囲気はWikiをどうぞ)
モロタイ・ハルマヘラはマッカーサーのI Shall Return作戦の基地ともなった重要な地点で日本兵2000人に対し57,000の米軍で制圧したところで、どこかにマッカーサーの銅像(Zum-Zum島)も立っているはずだ。中村さんの銅像は多分建て替えられ、戦争モニュメンに、又立派な戦地博物館もある。島民有志の活躍と、州政府の観光資源化の努力がすごいようだ。新飛行場は出来たので、その気になれば行けるかもしれない。