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インドネシア歴史

2020年4月13日 (月)

ジャカルタのJardine Mathesonの影

ジャーディン・マセソンと言えば、幕末、開港横浜の一番地に事務所を構えた英国の貿易商社で、土佐の竜馬が道をつけ、長崎のグラバー氏の商売の柱ともなり、薩長の武器輸入を支援したことなど有名であるが、その前の1840年の阿片戦争も阿片を取り扱っていた同商会が戦争の引き金になったりもした。多くの小説でも出てくるが、ジャカルタに赴任して最初の段階で、 00hsbc-kalibesar-2008この名前を聞いたのは当時世界のトップ銀行でもあった香港上海銀行HSBCの存在であり、戦前より同行の事務所としていたオランダ時代の記念的建物の存在であった。  このカリブサールの建物群がこのブログを始めた動機となった素材である。それが現在も生き続けている世界有数のコングロマリットのひとつであり、次にそれを感じたのはアストラの挫折を受けて立った企業の存在であった。そして今一度調べてみるとスーパー・ヘローの受け皿もそうであり、多分タムリンの名門マンダリン・ホテルもそうだろうと思う。 00wtc-aug-15-12 念の為Jardine MathesonでGoogle Mapで見るとHSBCのあるWorld Trade Center(WTC)に PT. Jardine Lyoed Thompsonという会社があった。これもJardineの子会社である。このWTCがJardineのジャカルタの本拠になるものと思うがカリブサールのHSBCの両隣がシナール・マスのシナール銀行とBIIであったが、シナールマスのトレードセンターはITC(Interntional TC)ゆえ関係はなかろう。所で肝心のHSBCは創業者が別であり、Jadine Mathesonはその大口利用の顧客第1番であったであろうということだ。 wikiには“ジャーディン・マセソンなどが香港で稼いだ資金をイギリス本国に送金するために設立された銀行である。”と記している。尚現在はシンガポールに上場を移している。

2020年4月 9日 (木)

ウィキペディアのAPRAとAndiAZIZ

短いインドネシア連邦共和国時代に起こったAPRA事件とAndi Aziz事件は相次いで起こった似たような事件であるので混乱するが、この二つの事件(Peristiwa)はそれぞれ、Wikipediaに 解説があるのでそのまま要約しておこう。 APRA (Angkatan Perang Ratu Adil)とはインドネシア国家革命の間に設立された親オランダの民兵による軍隊である。この軍団は、1949年1月9日に統一デポ・スペシャル・トロエペン(KNIL特殊部隊基地)から復員した元DSTキャプテンのKNILレイモンド・ウェスターリングによって設立されたものである。軍団の名前は、トルコ系の「ラトゥ・アディル」の到来を予測したジャヤバヤの古代ジャワ語預言書の一部に由来する。 トルコの血を引くWesterlingは、自らを、インドネシアの人々を「専制政治」から解放する「ラトゥ・アディル:公正の女神」であると称したものである。ウェスターリングは、ジャワの人々が支配している、スカルノとハッタが率いる統一インドネシア共和国に反対し インドネシアにおける連邦国家の存在を守ろうとしたものでAPRAは、元共和党ゲリラ、ダルル・イスラム、アンボン、マレー、ミナハサ、復員KNIL、連隊専門部隊(KNIL特殊部隊連隊)、オランダ陸軍を含む18の多様な反共和党派からリクルートされ、1950年には、APRAは一連の農村自衛の一群から2,000人の兵員を擁する戦闘力に進化している。 スカルノの治世の影響力の増大に不満を持つウェスターリングは、ポンティアナックの連邦主義者スルタン・ハミド2世と共謀して1950年1月にクーデターを起こした。1950年1月23日、APRAは共和党政府に対するクーデターを開始した。彼らはバンドンを一時的に占領することができたが、ジャカルタとブロラを占領することができなかった。彼らはRIS内閣を打倒し、スルタン・ハミンクブオノ9世の国防相やアリ・ブディアルジョ官房長官を含む著名な共和党議員を暗殺する計画を立てていた。 このクーデターの失敗は、ウェスターリングの民兵組織の破壊につながり、彼はオランダへの逃亡を余儀なくされた。強力な指導者がいなくなり、APRAはついに1950年2月に機能を停止した。APRAの行動は最終的にスルタン・ハミド2世の拘束につながり、1950年8月17日にインドネシア共和国連邦の解散を加速させ、ジャカルタの中央政府が支配する統一国家に一変した。以上正式にはAPRAクーデター事件Peristiwa kudeta Angkatan Perang Ratu Adilと言われる。              Peristiwa Andi Azis(アンディ・アジス事件)は、東インドネシア国の存在を守ろうとし、インドネシア共和国の統一国家に戻ることに消極的な元KNIL幹部のアンディ・アジスによる反抗活動である。 アンディ・アジス自身、元KNIL将校で、APRISの将校に受け入れられその就任式は、東インドネシアの国軍司令官Ahmad Yunus Mokoginta,中尉によって取り行われていたものである。 アンディ・アジスは新しい政府のAPRIS(ABRI)の将校達は元KNILのメンバーが多いし、従い東インドネシアの領土の治安妨害に責任を負わなければならないと主張し行動に移したものである。 彼はAPRISから元KNIL兵士を分離移動させ、APRISの本部を攻撃し、モコギンタ中尉を含む多数のAPRIS将校を人質にした。 マカッサルを支配した後、彼は東インドネシアの状態を保存すべきであると主張したが、政府は、1950年4月8日、最後通告を行い、アンディ・アジスにすぐにジャカルタに出頭するよう命じた。最後通告を守らない場合、海軍ハン・トゥア号でマカッサルの街を爆撃すると予告し又、4 x 24時間以内に釈明することを要求したが、期限を無視された後、政府はアレックス・カウィララン大佐の下に軍隊を派遣した。そしてついに1950年4月15日、アンディ・アジスは、逮捕はされないというスリ・スルタン・ハメンクブワナとの約束のもと、ジャカルタに来たが、アンディ・アジスがジャカルタに来るや彼はすぐに逮捕された。 (wikiではこの後戦闘と言う項目で以下が付け加えられている。) この活動(編者注:その後の小活動か?)は、KNILによって妨害されたAPRISが、挑発し、結果衝突したAPRIS軍の活動から始まった。 1950年8月5日に第2戦闘が勃発したがAPRISが陸軍、海軍、空軍からすべての部隊を配備することにより首尾よく征服することが出来た。 June-001-2Ratu Adilは抗オランダのディポネゴロを守ったはずだが。。

2020年4月 7日 (火)

3人の英雄Adisucipto-Adisumarno-Abdulrahmanの綴り

インドネシアの独立戦乱のネットから何となく引っかかりファイルしていた文書にDakota VTというのがあり3つのAの英雄名が出ていた。 小生の英雄道路シリーズに登場させたはずだと、調査の手始めにAdisuciptoを調べると、どこにもない。綴り間違いを直し、次のAdisumarmoにも移って、始めてこれらの名前はジャカルタには無く、小生が集めた国内空港リストにあることが解った。しかし後一人の名前Abdulrahman Salehの名前がリストアップされてなく、又マイブログで検索をかけるが、これがまた出てこない。Abdulには大統領のWahidや、スカルノ・デモで斃れたHakimが居たし、SalehにはRaden SalehやChairul Saleh迄よぎってくるが極め付きはAbdulrahmanのRachmanにはRahmanの綴りもあり、又AbdulとRahmanを区切るものなどめちゃめちゃになったが更なる極め付きはこの人の名前はDr.が付いているので、兵士の時代に英雄視されたが、長じてはインドネシア大学の医学博士など教授になったのだろうと思ったが、思い当ってこの3人は兵士の時代にこのダコダ機墜落で名誉の戦死を遂げていることに唖然とした。結論を急ぐと:過ってのマイブログで紹介できないのでマイ小冊子から以下を拾う。 Dr.Abdul Rachman Saleh(1909年~1949年) ジャカルタ生まれ。オランダ系のMULOからマランのAMSを卒業後ジャカルタ医科専門学校で医師となりインドネシアの生理学に貢献した。後年インドネシア大学は「インドネシア生理学の父」なる称号を与えた。日本占領中はラジオ放送で世界にインドネシアのニュースを流した。1946年マディウンの空軍司令官に任じられ、航空術やラジオの学校を設立した。1947年アディスチプタと共にインドへ出張、帰りの飛行機がジョグジャに着地するときにオランダの航空機に射撃され、インド赤十字から入手した薬品と共に消失、彼もこの事件で死亡。1974年国家英雄となる。ここの通りには民族覚醒博物館(Museum Kebankitan Nasional)がある。訪問した2006年11月のある日、入り口には誰もおらず、大きな中庭を長屋的な教室が囲んでいるが、訪問者もなく閑散としていた。 以上補充するとせば、 * Abdulrahman SalehとAdisuciptoは英雄叙勲があったが、Adisumarmoはリストにはない。 昔からの印象だがインドネシアはこのリストの正式なものがなくまちまちである。小生のリストは2019年で188人である。 00kebangkitan-14-4* Jakarta市内の道路名になったのは上記のStoviaの民族覚醒記念館の前の道にあるDr.Abdul Rahman Salehだけで、Aisuciptoがバンドンにはある。 * 空港リストにない事はGoogleで発見したもので、Google Mapには、それはMalangにある事が解った。漏れの理由は小生のリストが国際空港だけであったからである。しかしGoogleではRachmanと綴っている。後の二人はAdi SuciptoがYogjakartaであり、Adi SumarmoがSoloである。 * Abdul Rahman Salehと同一名の検事総長がユドヨノ時代に居たことはマイブログでも出てきている。スハルト訴追関連であった。 * マイブログであと一つ“最高に混乱したインドネシア英雄ブログ”というのを書いていたことに気付きびっくりしたが、それはジャカルタ市長の父親 Abdurrahman Baswedanである。 * Abdulrahman とAbdulrachmanの綴り違い程度ではどれだけの違いがあるのかは知らないが、日常では気にしない問題だと思う。上記小冊子の記述は簡潔でいながら全てを正しく記述している。若い時代を思い出した。

2020年4月 6日 (月)

ウエスターリング、締めれば戦争論か

ウエスターリングのフルネームはRaymond Pierre Paul Westerlingで1919年8月31日にトルコでギリシャ人の母親とオランダ人の父親との息子として生まれている。 彼がオランダにやってくる前、彼はイスタンブールでオランダ軍に志願し、軍命令でイギリスで訓練を受けその後インドやセイロンで特殊技量の技官分野で働き、戦線に出ることもなく1945年9月になってメダンにKNILの将校として派遣されてきたのである。彼の訓練の範囲には非武装戦闘やサイレント殺人、ジャングル戦闘などがあった。 その頃インドネシアは独立宣言後緊張と混沌の中にあり、彼は防諜・警察ネットワークを組織しTerakanと呼ばれたギャング団を不正規手段により排除するなど有名であった。 Jakartaで親オランダや混血のインドネシア兵などを入れたデポ特殊部隊DSTの司令官となり、南セレベスの征定を命じられたのである。当時スラウエシのオランダはKNIL駐屯軍含め、崩壊直前であり、ジャワ出身の戦闘員が紅白旗の下、地元民テロに加わり、オランダ人や新オランダ中国人などが攻撃されていた。この征定はウエスターリング法といわれるやり方で、入手情報により疑いのある村は夜に包囲し、明け方から女子供を分け、テロ兵士をさらけ出させ、オペを行う方法であった。その後、コーランに宣誓させた村の指導者と警察部隊を組織化したと言う。 インドネシア当局はウェスターリングが約4万人の死者を出した責任があると主張しているが、ナッシールも当時プロパガンダがあったこと暗示しているし、オランの歴史家も、ウエスタリングによるものは400人であり、その後の引き継いだ2代の司令官が1,500人ずつという話をもある。この作戦は1946年12月に始まり、1947年2月迄続いた一連のもので、この時、南スラウエシ人民抵抗軍(ラスカル:LAPRIS)を結成しゲリラ戦で戦ったW.Mongisidiは逮捕され死刑となっている。一応、オランダ政府の公式的調査や一部の賠償もされている模様だ。ハーグ円卓会議の条約では戦時中の事件に対する特に政府命令による作戦の罪は問わないこととされているようである。 ウエスターリング自身は戦後オランダに帰国、インドネシア系フランス人の妻と定住し後に離婚・アムス移転し、最後は1987年に病没している。 4万人もの虐殺など、小生も今冷静に考えればあり得ない数字であったが、日本軍のポンチアナク虐殺事件もあった事からこの事件には飛びついた反省がある。上記記述も一つの報道資料の抜き書きであり、最後の締め方が解らない。なにせこの事件関連では 再々再々2 回もマイブログで触れているが毎回一言では締めきれなかったものである。 4万人がらみの過去の記述やニュアンスは事実化し過ぎであったことなどを謝るためのブログである。メナドにモンギンシディの記念像があった。片方にPierreとあったので驚いたがPierre違いのG30Sの犠牲者Tendean大尉であった。 Tendean-dan-monginsidi

2020年3月31日 (火)

バロンサリのRawa Gude 英雄墓地

バロンサリ村で 1947 年 12 月に起きた住民虐殺に対するオランダの謝罪についてのニュースを見て、このバロンサリを調べようとして、この検索に大分時間を浪費した。 00baron-sari-home-stay-jogja最初Google Mapで調べると Baronsariではジョグジャカルタの南の地名(Baron Beachの民宿が出てくるし、スペルを直してみたりして、苦労してBalong Sariを引くとSurabayaやJombangなど各地にあるようでその中のKarawangを引くと地域が表示される。00-monumen-rawagedeこれは村の名前であることは想像ついたがこの村の線で囲まれた領域を拡大するとその中にRawagede Monumentというが出て来た。 有名なラワグデであることに気付いたが遊園地みたいな場所であるので村の地図に戻ると、00-rawagede-mahkam少し離れてMakam Pahlawan Rawagedeというのがあり、将にこれこそラワグデの虐殺事件の犠牲者の墓群である。その事件は確かブカシで1947年12月19日に起こったオランダ軍の住民483名の虐殺処刑事件で、その墓地であることも看板の表示から確認できた。 00-rawagede-tirta-pitu-kolam近くに立派な遊園プールもありこの3ケ所がセットものの様だ。一度来てみる価値のある場所である。 ニュースのバロンサリとこのRawagedeが一致したのであるが、それならこの事件のオランダの謝罪は2012年にオランダ大使を通じたオランダ政府の公的謝罪を行っており、犠牲者の全員に賠償金も支払われ、済んでおり、小生もその時このブログで“ブカシの英雄NoerとChairil”として記述している。 小生がこの事件を知ったのはモナスのハイルル・アンワールの胸像からであり、この事件を扱ったハイルルの詩についても“ハイリル・アンワルのKarawang-Bekasi叫びの勝利”としてブログ化している。 冒頭のオランダ国王(ウイレム・アレキサンダー王)の謝罪は、何もこの事件だけを謝罪したものでなく独立宣言後のオランダの行動での暴虐(Kekerasan)の全てを謝罪したものの如しである。最大の虐殺はウエスタリング事件であるが、4万とも言われる犠牲者への贖罪はどう行われたのであろうか、又調べてみよう。 写真は全部Google Mapからである。 謝意はどう行えば良いだろうか。

2020年1月22日 (水)

独立戦学徒玉砕の父 イスマン

WijayaのGraha Purna Wikaのスカント大将の銅像をマイアルバムで探しているとき、同じような胸像を見つけた。建物の名前か写真の下の方にあり、部分的にas Ismanと読めるが、マイアルバムのフォルダーWijaya地区に入っているが全く心当たりがない
00mas-isman-dec-15-4どうにかWikipediaとGoogle でその胸像の人はMas Isman、建物の名はWisma Mas Isman、そしてその建物/胸像が建つ通りはWijayaではなくメンテンのCik Ditiroと解かった。昔の郵便局本部の記念遺蹟建物を残した六星ホテル(Hermiage)のあるCilacap通りとMoh Yamin通りの中間にあるが、今は大分荒れているようだし、日本人が利用できる建物ではないようだ。 
念の為マイブログを調べると2015年の国家英雄叙勲記事があり、この年6人が選ばれた中の一人で、当時のマイブログには“東ジャワ出身、TNI・ゴルカールの政治家”とのみ紹介している。

彼は1924年生まれ1982年歿しているが、オランダと戦った独立英雄である。1945年独立戦争では東ジャワの学徒部隊Tentara Republik Indonesia Pelajar(TRIP)を創設して戦った。戦後、1956年―58年中佐で首相官邸を守る部隊を指揮、その後ラングーン、バンコック、カイロで大使を務め、1978年にはDPR/MPRの議員にもなりKosgoro設立に尽力した。彼の独立戦争はマラン市にTRIPの記念碑として見ることが出来るが、TRIP戦捷通りには35人の学徒の墓地もある。ジョコウイ内閣での青年スポーツ大臣を務めたハヨノ・イスマンは彼の息子である。そうだ。
タイトルは少し小説化しすぎかもしれない。

2019年12月17日 (火)

ヌール・アリの真実

 

昨日の続きでもNoer Alieのもう少し詳しい伝記があった。
http://sosok-tokoh.blogspot.com/2016/05/biografi-singkat-kh-noer-alie.html
肝心の部分を要約してみよう。
日本占領時代(1942〜1945)はヌールは日本軍の宗教管理事務所に名前が知られているので十分注意を怠らなかった。1942年、マトラマンの日本軍州境管理事務所に呼ばれ、そこの長はメッカで知り合ったハジ・イナダと言う日本人で日本軍の協力を要請してきたがヌールはプサントレインの仕事があると拒否し、イナダもアジアラヤに抗しないことでプサントレンの継続を認めてくれた。ヌールはインドネシア青年が何時かは自国の為戦うこともあり得べしと兵補や警防団に協力し又弟子をPETAに参加させたりした。独立宣言の後彼は地方委員会(KNID)に選ばれ又9月19日のイカダ(現モナス)大集会には大衆動員をかけた。その後はブカシのヒズボラー大隊司令官になっている。スラバヤの英雄の日となった戦乱の中ブントモと共にラジオ放送で連呼し、キアイ・ハジの名前で有名になった。
1947年7月オランダの軍事侵攻の際はヨグジャのシモハルジョ将軍から西ジャワのゲリラ活動を命じられカラワンにあるヒズボラ・サビリラ(MPHS)本部の司令官になりました。
彼らはインドネシアの独立運動がまだ存在していることを示すために、各地で戦いを挑み、Rawagede、Karawangでは村の家々や木々に紅白の小さい旗をかけさせ、オランダはこれを怒り、これはインドネシア国軍によるものだとその長ルーカス・クスタリョ少将を捜索にかかり、住民をとらえ、最後には431名もの虐殺に走ってしまっていた。
云々という程度で、詳しいようで詳しくない。

 

Rawagede少し調子よくなった小生のGoogle Map ではKarawangインターチェンジからRengasdenklokに向かう途中にモニュメントがある。Pool 遊園地もあり、ベカシ・カラワンにゆかりがあれば一度は行くべきだろう。
Noer Aliの道の先はChairul Anwarの名前の道があるが、ここからも相当遠い場所になる。
その詩人の事についての小生のブログは2011年9月22日 (木)
「ハイリル・アンワルのKarawang-Bekasi叫びの勝利」に次の様にある。
モナスの西側にタムリンの胸像があったが、北側にはChairil Anwarの胸像がある。 インドネシアの詩人であるが文学分野でオランダとの戦いを挑んだAngkatan 45の代表である。彼が謳った詩Karawang Bekasiと言うのがあるがこれはオランダ軍によるRawagedeにおける村民431名の虐殺事件を糾弾する歌である。
オランダ軍は反戦指導者LUKAS Kustarioを追ってRawagedeにやってきたが村民はKustarioの所在を明かさず、結果1947年12月9日オランダ軍は男の村民431名を銃殺した。64年も前の事であるが2008年になって残された未亡人10人がオランダ政府を告訴し、今年9月15日にその判決で勝利を獲得したのである。
モナスのアンワールの胸像にはこの詩が刻まれている。
“Kami yang kini terbaring antara Karawang – Bekasi Tidak bisa teriak 'Merdeka' dan angkat senjata lagi” 我々は今カラワンとブカシの間に散華し、ムルデカを叫ぶことも武器を取ることもできない。
その村に行くと死亡した431名のお墓がびっしり並んでいる。村民は実際Kustarioの所在を知らなかった事が後で判明したとのことが勝利の判決となったのであるが、知っていたとしても明かさなかっただろうと名誉を維持している。理由如何でオランダが正当化される問題ではないし431名に十分な賠償をすべきである。 

 

本件に関しては2012年5月10日 (木)「ブカシの英雄Noer とChairil」にもあり、なんと3回目であった。

 

2019年12月10日 (火)

ベカシの英雄ノエール・アリ

ベカシの英雄ヌール・アリ

 

NoorやNurに英雄が居るかと過去ブログを見るとNoel Aliがまず出てくる。打ち捨てられた高速道路のBecakayuを紹介する時、その線路添いの道がJl. Noel Aliであると簡単に済ましていたので、これ幸いと調べに掛かった。
例によりWikipedia (https://id.wikipedia.org/wiki/Noer_Alie)には半ペイジほどでこれなら簡単だと取り掛かることにする。それによると:「キアイ・ハジ・ノアー・アリエは、1914年7月15日に西ジャワ州ブカシで生まれ、1992年1月29日に西ジャワ州ブカシで死去したインドネシアの国家英雄である。2006年の大統領令第085/TK/2006、2006年11月3日で国家英雄に叙せられた。彼はアンワル・ビン・ラウとマイムナ・ビンティ・タルビンとの間の息子で、ブカシ周辺の何人かのウラマから宗教教育を受けた。1934年、彼はハジを実行し、メッカで宗教科学を深め、6年間そこに定住しました。」何故かこれだけである。2014-tambung-21 それでは始まらないので英雄センター(https://pahlawancenter.com/kiai-haji-noer-alie/)の説明に詳細を求める。追加説明を引用すると :
* 1937年ハッサンバスリとブタウイ学生寮を設立、その後日本軍の占領で、日本軍の力が及ばないブカシにプサントレンを設ける、
* 独立後はブカシ地区の地方役人(KNID)に任じられ、ジャティネガラなどで軍TKRとラスカルラキャット(人民野戦軍)を組織、青年たちの訓練に従事
* オランダの第一次侵攻の際は ヒズブラー・サビリラー司令本部と共にチカンペックで新しいゲリラ部隊を組織。
* レンビル協定の時代はノールの部隊はバンテンへ聖戦、或いはチパユンでオランダ軍に追われ危うく捕まりそうになったが逃走に成功。
* 1949年、ノールはマシュミ党のジャテイネガラ地区或いはブカシの役員におされ、1955年の選挙では彼の地区のマシュミ党は最高の投票を得、中央議会のメンバーとなる。
* 1965年G30S/PKIが起こるやイスラムの組織の同僚と協力し、特にブカシ地区で活動を強化した。
以上の貢献により2006年国家英雄に叙されると言うだけで、いやに簡単である。今一つとして
イスラムの全国紙でもある新聞Republikaの記事KH Noer Ali, Sang Singa Karawang-Bekasi
(https://www.republika.co.id/berita/dunia-islam/islam-digest/19/02/12/pmsv1k458)
から又追加すべき事項だけをピックアップする。
 ヌールは1940年に故郷に戻りAt Taqwaプサントレンを先ず設立した。At Taqwaは宗教教義を学びながら支配者に抗する拠点でもあった。
 日本占領時代も彼の意気は落ちることはなかった。日本は最初日イを旧友だと言いふらしていたが残酷さはオランダと変わることなく、更に戦局に従いインドネシア人の同情を求める方向に流れた。一つの例はPETA(郷土防衛隊)である。ヌールは軍事訓練を受けることはいずれインドネシアががそれを必要とするときが来ると見たから、これらPETAや兵補、警防団に多くの若者がが参加することを止めることはなかった。
 ヒズブラーは日本軍の時代からのものであったが、ヌールはヨクジャにスディルマンを尋ねた時の結論はインドネシア正規軍のフリルを付けずゲリラを継続することを求められ、このゲリラ戦はオランダ人を欺き効果を挙げた。
 ジャカルタのヒズボラ・サビリラ本部の時代だろうか、彼はオランダ軍に恐れられていたが、捕まえるのはウナギを取るのほどに難しいと言われ「カラワン・ブカシのウナギ」というニックネームが付けられたのだ。
 その年の年末に、オランダはついにインドネシアの主権を認めた。ノエルは人民の戦士たちを解散させ、彼自身はAt Taqwa 財団を通じた教育の世界に捧げることになる。

 

この引用紹介文も長くなったが、小生の気持を明かすと、この人こそ、詩人アンワールが詠った「カラワンーブカシの間」の惨劇のオランダ抗争の主人公の一人で、その惨劇は2013年だったかオランダ政府が初めて謝罪した戦争犯罪であり、小生はその現場に立った時があるような気がする、それにしてもなぜ英雄叙勲がこれほど遅れているかの詮索が続くだろうと言うことだけ述べて今日は終わりにしておこう。
但し道路名となった地区が英雄本人の出生地であるという数少ない例(これしか知らない)00grand-wisataである。

 

2019年12月 9日 (月)

青空はためくパスキブラカ

 

19941anggotapaskibrakamembawabenderapusa Paskibrakaパスキブラカという単語も何語だろうかと、戸惑うがインドネシアでは独立に由来する由緒あることばである。 毎年、独立記念日の大統領宮殿での式典でテレビに釘付けにされるが、あの国旗掲隊Pasukan Pengibar Bendera Pusakaの凛々しさと翩翻とはためく紅白旗に胸躍らせる青少年も多いことだろう。
1945年の独立宣言の日の国旗掲揚はスカルノの自宅でファトマワティが手作りした国旗を掲揚したが、翌年は大統領は独立戦時下のジョクジャにおり、側近の一人、少佐(海)フセイン・ムタハルに、国旗掲揚儀式の執り行いを命令し、ムタハルはヨクジャにいた、インドネシアの全地域から代表を選ぶよう手配したがその時はどうにか5人を選ぶしかなかったようである。それでも5の数字はパンチャシラである。オランダ撤退後はジャカルタの大統領宮殿にスカルノの親衛隊とか家中で執り行われたようだが、スハルトは66年に再度ムタハルに組織化を命じ現在の形が出来上がっていった。掲揚隊はこの宮殿の他、政府レベルでは州知事と県知事で組織されたが基本は核となる国旗隊8人と随走隊17人に護衛隊45人が付く形をとる。
00sampurnq-aug17 8月17日のジャカルタ市内の状況は何度もブログで特集したが紅白の国旗を縦横に、大胆な発想で大型旗や小型の連楊旗、しめ縄ねじりや三角旗や五色旗迄町中を飾り立てる。日本は日章旗をgoogoleすると日支放棄になるほど見掛けることもないが、インドネシア人のクリエーテブには感心する所である。紅白であるので日の丸の色と同じで有るが、関係はなく又オランダの国旗から青を引きちぎったマジャパヒットホテル事件も思い出すが、インドネシア人はそんなことは一切口葉にも出ず、この色はマジャパヒット時代からの国の色であるそうだが、それだけでも又数刻を要する。

 

2019年12月 5日 (木)

Den HaagのHamid 二人

 

昨日のAbdurrahman Baswedanから始まった混乱の原因は、3人の共通項でその一つがアラブの名士として取り上げた、アラブ系のインドネシア人であると言うことであったが、あと一つ言い遅れたのに3人は共通の時代であると言うことがある。
まずこの3人は生まれと死亡の間に3人がそろっている期間が62年もありそれは
Sultan Hamid で1913年~1978年で、
Hamid Algadriが 1912年~1998年で、
Abdurrahman Baswedanが1908年~1986年である。

 

Konferensimejabundarkmb時代特徴的には特に独立宣言のあとシャフリルが未だ力を持っていた時代で特に前2者はハーグの円卓会議に参加していたということである。Sultan Hamid II世はユリアナ女王の補佐官の一人にも任じられた親オランダの人物で、所謂傀儡国群(16ケ国・地域)BFO代表で自身は西カリマンタン独立国代表である。共和国側はハッタを長とするルム・スポモなど計10人の代表団で、彼らと同行した顧問団の一員にHamid Algadri がおり、軍事問題が担当であった。二人は知己ではあったが政治的には意見を異にしていた。シャフリルもハミッドⅡとの出会いの最初から対立感を覚えたが後には昏倒を救われたこともあり、Hamid侯の優しさと勇敢に感銘し仲を一転している。ウエスタリング事件関連で連座させられたことがあり汚点となったが、最初のRIS内閣で国務相となり、或いはその時代にガルダー国章を製作している。ユリアナ女王への忠誠と祖国愛の谷間にに悩んだいわば勤王の志士だ。彼については過去両手に及ぶほど書いているが、Hamid Algadriについてはつい最近11月17日の “ゴジェックの家系 Makarim & Hamid"で紹介した通りである。Hamid侯のフル名前や家系ににはArgadriが出てくるので別人かどうかを確認するのが今日の主目的である。
円卓会議の状況を示す古写真はアップした気もするが。。。再度アップした。

また過去記事へのリンクにも成功したし、文章原稿のコピー(従来はドラッグで失敗続き)にも通常エディターにより成功、将来またブログの一本化が展望できるようになってきつつある。