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今さら日イのはてな

インドネシア観光地誌

2021年4月16日 (金)

トリコラがモロタイやメナドの観光資源に?

ジョコウイがハルマヘラの飛行場式典に出かけたニュースから、モロタイの日米戦争記念館など現地政府が遺品などの整備展示をしていただいている話を書いたが、
Trikora-tugu-morotaiその日米戦争の記念館には イリアン開放作戦のTrikoraの記念碑もあった。トリコラ(Tri Komando Rakyat)と言うのは1962年イリアン開放に向けた国民の任務として① オランダのパプア国設立を失敗させること ②西イリアンに紅白旗をたなびかせること ③総動員の準備をすることの三大命令を下した。少将スハルトがマンダラ作戦を担当しソ連の武器で装備した大規模作戦であった。ムルダニがRPKAD落下傘部隊総司令官としてを指揮し6月には100名のメラウケ降下させた。この本気度作戦と脅しでオランダは米国の仲介に従うしかなく、7月対オランダ勝利宣言を経て1年後領有となるのであった。先日のSarwo Edhie Wibowoはこのあとの1965年のこの落下傘部隊の総司令官である。
このトリコラ作戦が何故モロタイなのかは思い当たる節は無い。多分にマンダラ作戦の象徴はアル―海戦などもあるが、パラシュート隊の降下作戦であるからであろうか。
日本軍のパレンバン降下作戦の印象も強く残っており、日本の元参謀に助言を求めた話もこれあり、その基地としてMorotaiが使用されたのではないかと思う。Morotaiには米軍がフイリピン奪回用の立派な滑走路もあり、尚且つこのマンダラ作戦の前に対スカルノの反乱(Permesta)が起こり、この時もこのMorotaiが降下作戦の場所であった。Monumen(Tugu)Trikoraはあと一つ、モロタイ島の西のスラウエシ島のメナド近くにも立派に仕上がった観光施設がある。こちらもトリコラ作戦時やPermesta作戦で使用された飛行場や作戦機DC-3 ダコタ機があった故らしい。Tugutrikoradipulaulembehbitung-1場所はメナドから東へ25km弱の対岸である。
他にもしやとGoogle Mapで検索すると国軍(TNI)本部のCilangkap(ゴルフ場)のTNI博物館(Museum Bhakti TNI)にもあるようだ。
161222bahangambar3001800x445ここは国軍歴史の全体の博物館故、全国の戦蹟・記念碑等の紹介でVideoを見たが説明の少ないサイトであった。
マンダラ作戦はトリコラの発出の日からオランダの協定案受諾の日(19 Desember 1961- 15 Agustus 1962)迄で、一方Permestは1958年2月18日の革命政府PRRI宣言(スラウエシは1957年3月:スムアル中佐のマングニ評議会のプルメスタ宣言)から61/9/19 シャフルディン・プラウイラネガラ(革命政府主席)の投降 を経て1962年1月のゲリラ掃討終了までである。

2021年4月15日 (木)

モロタイの高砂義勇兵

Googleのカメラ隊も立ったこともない辺境のハルマヘラの新空港に行ったジョコウイに敬礼し、折角の機会だからこの地の一つでもブログにしようと思ったが最後の日米会戦地モロタイは“遅すぎる降伏 沖縄とモロタイ”として過去に書いていたので読んでもらおう。
26974museum2btrikora2b25262bperang2bduniこの地には我が祖国台湾の高砂族の人が義勇兵として派遣されてきていたが、この人はあの最後の日本兵と言われた小野田少尉と同じ年に敗戦を越えて29年も逃亡生活を余儀なくされた元日本兵なのである。それは恥ずかしながらと戻ってきた横井さんに続く3人目として続いたものであった。
この3人を要点で挙げて見よう
* 横井庄一軍曹 (名古屋1919-1997) グアムで1972年発見、後サバイバル評論家 参院選にも
* 小野田寛郎少尉(和歌山1922-2014)比ルパンぐ 1974、後ブラジル開拓名誉州民 青年塾
* 中村輝夫(高砂族本名あり 1919-1979(59歳)  1974年12月モロタイ。
小野田さんは夫婦で日本会議などでも活躍し天寿を全うされたが後二人は尾を引いたのか病没である。漢名では李光輝と言われて、モロタイ現地で銅像もたつが、日本の賠償政策が良かったのか、最後は日本に帰る夢をみながらの往生であったという。(詳しい雰囲気はWikiをどうぞ)
モロタイ・ハルマヘラはマッカーサーのI Shall Return作戦の基地ともなった重要な地点で日本兵2000人に対し57,000の米軍で制圧したところで、どこかにマッカーサーの銅像(Zum-Zum島)も立っているはずだ。中村さんの銅像は多分建て替えられ、戦争モニュメンに、又立派な戦地博物館もある。島民有志の活躍と、州政府の観光資源化の努力がすごいようだ。新飛行場は出来たので、その気になれば行けるかもしれない。

2021年3月29日 (月)

Clay JakartaとBlue Sapphire、Baliとの差

Clayと言うHotelの名前がある。 地下鉄BNI近くで良いロケーションであるので、それが上場まで果たしたこの会社の背景かと思ったが、大分様子が違う。00clay-blora-gooまずロケーションはBNI駅の近くではあるがTosariとかPromenade側でなく、Blora 側であった。
00blora2010
マイアルバムではタムリンからスディルマンに向かう道から見た古い建物が並ぶ地区で2010年の写真ではPolekoビルの左側のビルがそれになったのであろうか。この地区はいかがわしい感じが漂う地区なので一寸開発が遅れているようだ。いかがわしいとは書いたが日本のカラオケもあったり、アメリカンパブにも行ったことはある。しかしこれが彼らの代表物件ではなく彼らの本拠はバリのようだ。バリでは
Infamy Rooftop Lounge やBlue-sapphire-baliBlue Sapphire Club and Bar或いはThe Stone Entertainment Centerを持っている。
会長はGajah Mada 大卒のRAJA SAPTA ERVIAN でPT. Citra Putra Mandiri (OSO Group) を率いている。 苦しい時代COVIDを生き抜いて欲しいものだ。

2021年3月10日 (水)

最後のバリ投資物件Lavaya/Gama

バリについては多くのバリ好きの人に任せていたが、最近大きな住宅プロジェクトの話があったので、今こそ動くべきだと感じて取り上げる。
Lavaya Resort & Residence Baliというものでヌサドゥア地区タンジュン・ベノアビーチでGanda Land グループのPT Properti Bali Benoaが開発を手掛ける。 

Ganda-sitrus-baliここ2.3haの土地に6階建てのコンドミや住宅街区をいれたミックスユースの住宅地を開発しているが、これをLOTとか言うのか賃貸後所有する形式で販売を開始しているようだ。
アパートが583戸、コンドヴィラが153戸、タウンハウス8棟、278ユニットのホテルが建設される。

00_rasna_tower_mar_15色々開発業者を検索して中でGanda Sitorusという名前から、これは既述のインドネシア・パームの大富豪Martua Sitorusを思い出し、そしてこのグループこそ長く分からなかったジャカルタの最高峰ホテルWestinのあるインドネシア最高のGama Towerの所有者だったことを発見したのである。ちょっと離れることになるがSitorusはCitrus柑橘類の意味であり、Gandaは倍の意味もあるがスタイルの意味もある。これで頭をひねっていたが合わしたGanda Sitorus はMartua Sitorusの兄弟だったことに思い当たったのである。二人は共同でGamalandを起こしたものの様であった。終につかめたこのプロジェクトは未だ将来がある。間に合ったのだ。
しかしクタビーチにはThe Anvaya Beach Resorts Baliがあるから間違わないことだ。

2021年2月25日 (木)

二つ目の島Pulau Duaのフィンランド・カフェ

ジャカルタのHutan Kota GBK(ブンカルノ・スタディアム)から目を移して、日本人の随筆に出ていた新しいモール(Spark)を発見した話の小生のブログ「Taman Ria Senayanの今昔」で同時に発見した妙な名前のフインランド・カフェは後回しにしていたので、今日何か書かねばならない。
Pulau-dua-1
写真は昔のレストランであるが、ここPulau Duaのシーフード・レストラン島に出来た、その名前もKOKONUT & CURTAINS BY WAKIMUKUDOというもので、住所はKomplek Taman Ria Senayan, Jl. Gatot Subroto, Jakarta Selatanである。このロケーションは一寸腑に落ちないこともあるものの、あるSNSでもlocated inside Pulau Dua restaurantとあったり、Google MapでもPulau Duaに二つのレストランの印と表示があるので同じ場所にこの二つのレストランはあることになる。決め手は日本人のブロガー“sehari-hari~~ジャカルタ生活日記”の2019年1月の訪問記で“そこにはPulau Duaというインドネシアン シーフード・レストランがありますが、その池に文字通り島が2つあり、その1つに新しいカフェができました”と云う文章に会ったことである。
実は小生自身、あのTaman Riaの湖水に二つ目の島があることを先日初めて知ったばかりであり、逆にガトット・スブロト側の島だけしかないものだと思っており、そちらの方が二つ目の島とは、今日知ったような訳である。
そしてこの住所にKomplek Taman Ria Senayanとあるのは、小生に取って昔の感覚と合わないものである。Gatot SubrotoからはいっていくPulau Dua地区はTaman Ria Senayan地区と敷地内で接してはいる(行き来は出来る)が区分け(出入口あり)されており、Taman Ria側の正門入口はJl.Pemudaである。Pulau Duaはこのブランドを大切にして、隣のTaman Riaの名前を使ってはなるまい。
Pulau-dua-5
こちらの二つ目の島に渡る入口はガトットから入った敷地と島を結ぶ長い屋根付き橋がかかっており、島に付くと左右に二つずつほど建物が並び、ずっと奥にも吹き抜けのレストラン建物が、全体をこの6つの建物でカタカナのコの形に囲んでいたが、この真ん中の敷地は広く、其処にバンド・ステージやキッズガーデンなどがあった記憶がある。 

Pulau-dua-wakimukudo-2
今地図で見てこの島に二つのレストランが同居しているのなら、いくつかの吹き抜けの建物を白く塗りたくり、更に真ん中の敷地に白い鳥かごみたいなネットを幾つも作ったのだろうと推定できる。
所で、あるSNSにはこのWakibukudoは日本語だと言う文章を見つけた(Oh by the way, fun fact, Wakimukudo is a Japanese word that means “the positive light feeling within your chest,” ちんぷんかんぷんである。それは打ち捨てて、このフインランドと日本の関係では小生は日露戦争時に明石大佐(だったかな)がフインランド独立に活動するフインランド英雄と助け合った話は思い出された。

2021年2月23日 (火)

セナヤン・パークの遠景ビル群比較

シンガポールでもワクチン接種が行われており、昨年は米国(Pfizer)とドイツ製を緊急接種したらしいが今回は米国のモデルナであるが、何せ人口は少ないので感染者1桁クラスで旨く行っているのであろう。5つの景気刺激策で3-5%の成長を維持するというから大したものだ。
Cbdsingapurabloombergnickylohmsl
その経済状況を報じる報道にシンガポールの俯瞰ビル群写真が添えられていた。最初はジャカルタの写真かと思ったが、先般のジャカルタ セントラルパーク(小生が勝手につけた名前)の写真が手元にあったので補足感想を付けて見よう。ビル群はもう互角である。
Unnamed2-3昔のTaman Ria Senayanと同じ面積で11ヘクタールである。湖の端の中島は森にしているようだが手前の森は国会敷地であり、奥はGBKの森で、うまく借景している。

2017年頃、まだ建設の再許可を得られないまま建設を始めていたようだ。
上の写真で見るとモールは簡易な構造であるのかのように見えるが、完成済の立派な写真も見たが、それは本物だったのかな。

金のあったリッポーがやっているのであろうが、リッポーの名前は付けられてない。微妙な関係が窺われる。モールには高級品店を呼び込みたいのであろうが、Senayanには既に高級モールSenayan PlazaもSenayan Cityもあるので、ここには息のかかった店が多くならざるを得ないか

屋外イベントなどもやりたいのだろうが、それは隣のGBKが引き受けるので、結局存在意義は家族慰安(Keluarga Entertainment)の場所となろう。

この写真でリッポーがひっぱりだされたが、リッポーついてはメイカルタ以来のブログ登場である。その間、その許認可に関わる贈賄事件の頃から様子がおかしくなっているようだ。
一寸比較して見ようと思ったがシナールマスもチプトラもハリムも創業初代は逝っているがリッポーは3代目に譲ったものの初代のモフタル氏は未だ元気である。比較に戸惑うがトップのシナールマスと比較すると
BSDは2015年高値2210が現在1,255で底値625より上昇中で決算も黒字維持
Lippoは2015年高値1,335で現在210,底値119と上がったが不変、決算は毎四半期赤字が続いている。 


何かあったとスッキリしないことを思いだした。メイカルタのトップはJIWASRAYA汚職事件のベンチョクとその親父のHandokoさんにさかのぼる系譜で自身も関連逮捕されたことがあった。この事件は小生の頭では終わってない。


2021年2月16日 (火)

Taman Ria Senayanの今昔

ジャカルタど真ん中の森林公園Hutan Kota GBKを探し出してあと、付近を散歩すると、プラウ・ドゥアあたりに来た。
今は何か荒涼たる雰囲気の中洒落たカフェ群もあるようなところで出て来たので、これは次の続きとしてのテーマになると踏んでいた。

そして今日、この荒涼とした湖水側の場所の名前を思い出し再度googleでサーチするとTaman Ria Senayan complexとの表示があり、又拡大するとSenayan Park Shopping Mallの字を浮き出てくる。

Taman-ria-2020
そうだ、ここがあのNNAの随筆氏が書いたカフェの場所だと直感した。小生が紹介できるのは昔の雰囲気でしかないので昔を案内しよう。その大昔、クニンガンでやっていた日本人会の野球大会がスナヤンに移って来たが、その入り口の向かい側からが正式な入り口であった(TVRIの隣かな)。入口で料金を払うのは今と同じだ。
中には大きな湖水があり、それに面した正面の通り(Jl. Gerbang Pemuda)沿いには大きな2~3階建ての、今でいうモールかプラザは既にあり、偶々取った写真はその左端のビリヤード・プールGarduである。
00taman-ria-senayan-gardu-2009

そこに行くには入り口を入って右側に三つ程欧米のレストランなどがありそれを右に横切り越えて、湖水に向かって入ってくるのだが、このモールにはちゃんとエスカレーターがあった。今のモールと規模は変わらない程おおきかった。エスカレーターの右側の広場には、オランダ人が経営していたパブもあり、何よりも湖水には大きな千トンクラスの船が浮いていた。この船の横付けした胴体からも入ることが出来たが船内はデスコがあった。外から階段を上ってデッキに上がるとそこは見晴らしの良い船上レストランであった。
このプラザをブルブラ歩くと湖水に張り出した音楽バンドのステージが見え、又すぐ花屋敷クラスの大きな遊園地に出てくる。其処を抜けると、今度はガトットスブロト側に出るが其処にも韓国レストランや欧米系パブレストなど3つ4つ立派なレストランが湖水に張り出すように建っていた。

この土地はその隣が国会敷地に隣接した国有地で、2000年代初めからここにこのような商業地はまかりならぬとか、議員宿舎を立てるとかの偉いさんの横暴で、これらの施設全部が破壊されてしまった。そして15年位も放置されたのであろうか 今又モールが立ったようだが、あれはスハルト時代だったのか、その時代の方がよほど立派に思う次第である。今度はドライブインシアターも設けたらしいが、これとて1980年代迄アンチョールにあったようなもので、近くになっただけの意味だけだ。しかし一風堂や牛角は当時はなかったと言える。

結果は立て直しとなっただけとも言えるその紛糾の実態は知らないが、これがインドネシアの随一の誤り沙汰の一つであるとつくづく思う。
(1962年のGBKスタディアムは2018年の56年振りのアジア大会にも立て直しせず使用したことには感心した。)
小生には80年代からよく来たもので、最初の時代はアディ・サディキン市長が創設した森林公園で湖水に面しては当時は山地になっており、その小山の森林を散策し、或いは釣りに興じる市民の、金の要らない憩いの地であった。

2014年頃のジャカルタ新聞では開発業者はアリオビモ・ラグナで25年の開発権を得てリッポーとやる話は出ていたので彼らがその後進めているのであろうが、前々水産大臣がやっているAriobimo社のプロジェクトリストには何もディスクローズされてない。一度入居の振りして情報を取るしかない。このような隠すスタイルの業者には胡散臭さが匂う。

実は小生のパソコンアルバムから08年以前の時代の写真がミッシングしており証拠を示せられない。Garduの写真は2014年破壊中の物である。そういえば破壊中の20年間は高い鉄塀で2~3km張り巡らしていた。
最初の写真では昔の風景と見間違うほど変わらないが、下の夜景はイメージ写真のようだが、Instagramの投稿を見ると本物のような気もする。
00spark-taman-ria-senayan-9
Spark-taman-ria-senayan-7

2021年2月15日 (月)

Dafam Hotelで行き先は決まった

インドネシアの新しいホテル開発運営会社が出来た。と云うと日本人は一つホテルか何か建ったのかと思う程度かも知れないが、もう着々と進めてこの10年で24のホテルを保有しているのだ。グループ名はDHM (Dafam Hotel Management)で、タレントというか才能ある若いクリエーターの二人のBilly Dahlan とAndhy Irawan.が、2010年にSemarangに創設したのだ。現在では24都市に2,230部屋数を数え、従業員も1059人に達する。インドネシアのカルチャーとホスピタリティを提供している。
設立翌年から毎年、何らかの表彰を受けており2020年は“ Indonesa Best Companies in Creating Leaders from Within 2020”、又2018年にはVENUE MAGAZINE “THE MOST POPULAR & THE BEST MICE INDUSTRY 2018:Innovative CEO - Mr. Andhy Irawan MBA”など過去10指に余る。
00aston-marina-hotel-2014Hotelに種別ブランドを持ち最高級はGrand Dafam でこの1月にAston Marina Ancol Hotel をGrand Dafam Ancol Jakartaとしてオープンした。このクラスは近くはバンドンのGrand Dafa, Braga,Bandungがある。

Dafam-jaksaその他Dafam Express Jaksa Hotel,やTeraskita Hotel JakartaなどBUDGET HOTELSなど3STARから揃えているようだ。

00jljaksaJAKSAが出たので見に行ったが昔そのテラスで飲んだMARGOTの横であった。さて準備は出来そうだ。

2021年2月12日 (金)

ジャカルタど真ん中の森林公園Hutan Kota GBK

NNAのジャカルタ随筆で、ジャカルタの新名所を思い出した。NNAのこの筆者の描写によると、そこは、テラスが数カ所にあり植物を植えて緑をふんだんに取り入れて周囲に高層ビルが建ち、撮影スポットにもなる。云々で(縦書きをコピーして横書きにすると、少しおかしくなるので要点を繫いだだけです:筆者に失礼します)。
20201122-4高層ビルに囲まれた不思議な一画の夜景の写真を昔、保存していたのでそこがどこであるか本腰入れて探すことにした。それほど難しくはなく後ろのビル群に多くの見慣れた写真があったからだが、不思議なのはカメラマンが立つ前は大きな池があり、見慣れぬ古民家風のカフェが数軒あることだった。場所の見当は付くので、すぐGoogleでそこに行くと、又見慣れぬ名前のHutan Kota GBKと言うのがと飛び込んできた。GBKとはブンカルノ・スタディアムで2018年アジア大会を開いた場所である。スデルマン通りに沿ったところは我々が昔、ゴルフ練習をしていた場所であるが大会準備のための整備だと言うことで閉鎖され、涙をのんだ思い出がある。
20201122-1なんと、そこがこのHutan Kotaで大きな池を掘った土で丘・や土手を築き、周りに多くの樹木を植えた大市民公園に変貌しているのだ。小川を流し、石橋に直に座って川面に足を投げ出して平然たる二人や、多くの若い男女が憩い且つスポーツに興じている姿は将に南洋トロピカル・パラダイスである。
Hutan-kota-gbk-google-8短い間にこの大変貌を作り出した人々や、その視点に、大人のアーバンライフを作り出した人々に感心する。最近は気候変動で各地で大洪水で荒れてはいるが、インドネシアにこの温暖な気候が永久に続くことを願いたくなった。

この湖の向こうに見える趣味の良いカフェはPlataranと言う名前である。それなら小生が昔、チョクロアミノトの古い家や
00dharmawangsa-plataranダルマワンサのジャワ風建築のカフェPlataranをブログで紹介したこともある由緒ある実業家である。ここに行き付いた甲斐があり、ほっとしたが、NNAの随筆氏の云う場所は南ジャカルタの新モールらしいが場所は書かれてないものの多分、建築好きの小生のブログではきっと又出会うだろうと記憶にとどめることにした。
写真はジャワ建物Plataran以外はgoogleから借用した。

2020年12月12日 (土)

区別難しいタワー林立 The Tower

9日のブログでSudirman 通りのMillennium Centennial Centerと間違えたCentennial Towerであるが、このビルは小生がジャカルタに居た2017年は建設中で立派なものが建つなぁと思い、且つこの名称に感心していたもので、同じころ少し違うが同じ名前のビルがあるとは思っても見なかったからである。このMillenniumの方のロケーションはTamara Towerの横と紹介したがその隣はInternational Financial Center(ブログ済)でこちらの方の建設中の様子はやはり同じころで覚えているので益々Milleniumが埋没するはずだ。
しかし比較すると
Millennium Centennial Centerは53F建て、開発オーナーはPermata Birama Saktiであるが、小生は薄々これはTan KianのDua Mutiaraではないかと推定している。しかし;
20201209-12Centennial Towerは39階とも40階とも45階ともネットに書いてあるが、オーナーはPT Citratama Inti Persadaであるとして、どのネット記事にも誰でも知っているがごとくこの会社名しかでない。CitraとかIntiが付く名前は多くあるので隠れみのになるのかも知れない。
写真ではここでも、
Manunggal-and-centenial-now-construct小生にはよく覚えているManunggal Towerがあり、その先の高いのがCentennialである。如何に高さが違うかわかる。2014年の写真は建設中である。

The-tower-googそしてGoogle Mapで目に飛び込んでくるのはThe Tower Project Site Office Alam Suteraという字で、これがCentennial Towerになったのかと一時は思ったが、それも間違いでこちらのAlam Suteraの物件は既に完成しており、ずばりその名前もTHE TOWERで別物だとわかった。
The-tower-alam-sutera-dulu此方はAlam SuteraとあったのでMannungalグループになる。場所はCrown Hotelから下ってChandraの手前のKrukut川があるところである。

00mesdjid-gatot-2Centennial Towerはここからもっと下り、小柄だがよく眼に付いた有名なモスクBaitul Mughniの手前である。ここで左手に入る道があり、そこに日系がマンションを建てると言うのでブログにしたことはある。そしてその道がMega Kuningangにつながるのである。
小生に取ってこの二つのタワーもおどろき中のおどろきであったので昔の写真を探すのが目的であった。固有名詞は忘れ、スペルには自信がなく、調査に手まどるのでここまで。