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今さら日イのはてな

インドネシア観光地誌

2021年7月28日 (水)

スマランのトコ・ウォンとクエ・オン

Toko-oen-semarang
随分前になったがスマランに行った時の名所の一つにToko Oenと言うレストランがある。
Pemuda通りNo.52で、そこの前に立った時は時間が合わなかったので入らなかったが、ネットで見ると中は広々として、良き時代のおおらかさを感じることが出来る。
Tokooen1fa63c01e413098793ae8743bccab75bf
この店の発祥をたずねるとヨクヤカルタのToko OenでLiem Goe Nioが1910年アイスクリーム名物のレストランを開業、更にジャカルタやマラン、スマランに支店を出したが現在は、マランとここスマランだけにしたようだ。スマランに支店を出したのが1936年だそうだ。今のオーナーは創業者の3代目の Yenny Megarajasa.である。  ジャカルタではCiptra Mallで主にRoti やSalad主体のオランダ風料理が供されている店があるようだ。
同じスマラン名物にOng Eng Hwatと言う Kue Semarang(お菓子)がある。お菓子の名前はnian gaoとも言うが 1947年に華人のKwe Mioにより、旧正月用に作られようで、以来色々トライしてきたが、民衆の好みはバナナの葉を使った籠らしく今も続いている。こちらも3代目のオーナーのOng Eng Hwatである。
昨今のもち米など原材料のねあがりにOng氏はねを挙げているそうだ。モールに行こう。

2021年7月17日 (土)

工業団地にPPアーバン水上都市も

00grand-kemala-lagoon国営高速道路会社のジャサマルガが不動産開発子会社を持っていたが、国営建設会社のPPは相当前から開発子会社を持っている。PP Property Tbk(PPRO)と言い、親会社のPPがが開発分野に多角化したのは1991年で建設分野以外の事業(UNK)で、Plaza PPでのレンタルやCibuburでのPermata Puri Laguna住宅などがある。組織体制の種々変遷のあとPT化したのは2013年である。上場は2015年である。
IDNFの紹介では当社が開発したプロジェクトは、Grand Sungkono Lagoon(スラバヤ), Grand Kamala Lagoon(ブカシ), Grand Dharmahusada Lagoon(スラバヤ)などがある。実際には彼らのサイトにはPark HotelやLittle Tokyo Cikarang、Paladian Park,Lagoon Avenue Bekasi(Mall), Grand Slippi Tower,Gunung Putri Square, Pekan Baru Permai, Pavilion Permata II, dan Payon Amartha,etc 全国的展開で枚挙にいとまがない。

00kemala-dari-ppここで紹介したいのはブカシのGrand Kamala Lagoonであろうか JAPEK高速のBekasi Baratの近くに全体30ヘクタールに15年計画で水上都市を建設するもので、最初のコンドミ(Mixed Use)に、6,070億投入し2棟完工したようで。第1棟Tower Emerald は完売、Tower Barclayも順調のようだ。

00-revo-bekasiこの高速はBekasiの街並みが下り左手にあり、右手はRevoタウンとMakro・Lotteが見える迄は何もない地域だったのではないか。ここにこのような大都市が出来ようとは当時ナノ秒すら考えたことはない。

00toll-cikampek-mar-14-25ジャカルタに帰る道すがらのんびり水田を見ながら通った思い出が有る。
国営会社のその又子会社なので役員トップはサラリーマン経営になるのか否か不明ながら監査役会長はSinur Linda Gustina Mであることは挙げて置こう。

2021年6月17日 (木)

夢のまた夢リージェント・レジby マンクレフール

Mangkuluhurcity1Rasuna Said通りに90年代からあったRegent Hotelが2004年に無くなってからジャカルタからRegentの名前が消えてしまった訳だが現在はどうかと試しにGoogle Mapを捜査するとGatot Suburotoのトミー氏のMangkluhur Cityの辺りにRegent Residenceと字が浮き出てくる。このプロジェクトは初めて知った時(丁度1年前の6月19日)、驚いて「ジャカルタ浦島物語 そのマンクルフール」としてブログした訳であるが、引用すると“トミーはこの横のCrowns Hotelも所有しているが、昔はホリディインと称したがその流れでクラウンも2流程度に聞こえるが、トミーが持つと将に王冠となる。そしてここ4haの土地には最高80階のオフイスビル The Pinnacleの他30階までのオフイスビルとアパート5棟が建つCityになったわけであるが、このMangkuluhurと言う名前は実は、Tommyの子息の名前でもある。“としている。添えた写真はCrown Plaza(16F)を入れたくて棟数が不明確になったが、5棟というのはこのクラウンプラザホテルを入れた、オフイスとアパ―ト、それぞれ2棟の筈である。
そしてこのアパート棟の一つにRegent Hotel・Residenceが入っているのであったが、既に高級ホテルのクラウンが有る処に複数のホテルでもあるまいとしたのかも知れない。今よく読むとここの57階のRegent Residence Towerの16階までがRegent Hotel、17階以上はRegent Residense で46階までが面積が1戸503m²と1戸251m2の組み合わせ、47~57階は1戸1,006m2と1戸503m2の組み合わせである。1階には基本3戸宛設営され、プライベートエレベーターが利用できる。合計10階には個別のプールが付いている。このSky Villaは270度の展望ができる。このような豪華な住宅であるので、Regent Hotelのサービスが提供され個人のパーティーなどのエベントにプライベート・シェフ派遣やBentley Flying Spurs V8での送り迎えなどのConciergeサービスが利用できる。住宅の6割はストラータ・タイトルで販売されるが価格はこの最小の住宅でもRp200億以上となる。平米当り$5,000である。
リージェントはFourSeasonsが売却したあとインターコンチが入手し、このMangkuluhur
Mangkulehur-in-back一番高いタワーThe Pinnacleは完成しているはずであるが検索が非常に難ししくなっている。87階で386メーターというWikiの数字はあるが、これだとジャカルタ最高となる。Youtubeのdrive写真でもそびえているので間違いは少ないはずだ。
このMangkulehur Cityの開発主体は実際はトミーの会社PT Wisma Purnayudha PutraとKG GlobalグループのKG Global Developmentの合弁であり、このKGグループのマスターピースを見るほどに狐につままれている。。。。
まだまだ明らかにされてない部分が多いので時を待とう。
Pinnacle

2021年6月16日 (水)

Four SeasonsからMarriottの波間へ消えた? Regent

00-regis-2017Rasuna Said通りのSt.Regis Hotelは、このホテルが建設された当初はRegent Hotelと言っていた。それは1995年頃のはなしである。現在のSt.RegisはStarwoodの傘下でMarriottグループになるがRajawaliは今迄やっていたSheratonの親会社がStarWoodの関係で計画されたものであろうか。前後は問わなければ、RajawaliグループはWestin Langkawiを持っているが、このWestinもStarwood傘下である。そしてStarwood自体がマリオットに吸収されたため今は無く、このSheraton、Westin、St. Regisの三つともマリオットの系列になるのである。

Regent Hotelの建設は1988年からでKodelグループが建設業者Total Bangun Persadaでやっていたが1995年Regent Hotelとしてオープン後、融資銀行の国営銀行の保有となっていた。その頃のRegent本部は東急も噛んでおり、その関連でプロモーションを利用し招待を受けた事もあった。
RegentブランドはFour Seasons英国本部が吸収合併したあと、Carlsonに売却したため順次Four Seasonsブランドに変更していったものである。

2003年に洪水に遭った後の2004年からFour Seasonsになったが、一時このホテルはサウジの王家が買収していたが、Rajawaliが2012年取り戻したものだ。しかし又2014年にここが洪水に襲われ休業せざるを得なくなり、当時先行開発していたGatot SubrotoでのSt. Regisプロジェクトとのブランドの交換をしたものである。従い現在のFour SeasonsはGatot Subrotoである、

こうしてジャカルタから由緒あるRegentの名前が消えていたのである。それは全て本部の都合からかであった。

一旦Carlsonに渡ったRegent はその後Inter-Continentalになり、ジャカルタではTommyとKG―GlobalのMangkuluhurでやっている。

2021年6月12日 (土)

ポンドクインダーの範囲と色々

00-jl-pondok-indah-2010ポンドックインダーと言えば日本人に取って羨望の住宅地であったであろう。日本人はジャカルタの南区に住んでいた関係もあり、北・北東の住宅地パルタイインダーやクラパガディンに比べ馴染みがあった。小生に取って、まず80年代はスドノの関係で丸紅さんが住んでいたかに思うが、ここは70年代チプトラにより最初から高級狙いで開発されてきた。高級にはエリート外人が入るが、こちとらは余り関係ない。2000年代にここの住宅を事務所にして営業許可を取った会社に驚いたものだ。ここの住宅の価格は都心並ではなかろうか。小口にはならないから400M²で200億ルピア見当か。
00-pondok-indah-2013しかし現代になり、TODがもてはやされる中、ここは公共交通機関は殆どゼロである。高級豪族は高級交通機関は使わないということであろう。

そして今もそのチプトラの開発会社は隆々としている。会社の名前はMETROPOLITAN KENTJANA TBK [MKPI]で株価RP27,000で時価総額は24兆ルピアである。
この間遂に逝ってしまったCIPUTRA氏が未だ副会長(現在はJunita Ciputraに変更されているか)に名を連ねているが、実はCCM/BERCA/MURDAYAのグループがマジョリティを持っているようだ。つまり会長がMURDAYA POO氏の妻Siti Hartati Murdayaの他、Murdayaの名前の監査役がPrajna Murdaya、Metta Margaretha Murdaya、Karuna Murdaya 3人とKaruna Widjaja等いる。後目に付くのはIwan Putra Brasali(父がCiputraの友人)やがいる。株主はPT. Karuna Paramita Propertindoが47%保有している。この会社は住所しかわからなかったがCikiniとなっているのでCCMグループに間違いない。

00-pondok-indah-towerIDNFの紹介文ではショッピングセンター(モール)としてPondok Indah I及びII、Wisma Pondok Indah I、II、およびIII、アパートゴルフPondok Indah I、II and III、居住用不動産プロジェクトPondok Indah、バタムのGarden Shangril La、およびジャカルタ南部のPondok Indahでのホスピタリティ、を所有し、管理していますとなっている。
Pondok Indahを地図で確認するとSCで I~IIIの他、Street Galary, OfficeTowerとしてI~III, Residensial TowerにもI~IIIが見える。 
Hotelは Pondok Indah Inter-Continentalがある。 
00pondok-indah-gc2010チャンピオンコースのPondk Indah Golf Corseは株主としてMurdaya家、Salim家、チプトラ家、DjokoやPribadiなどずらりと大口保有者が見える。
ポンドクインダーの住宅地に住む事にはあまり関係なかったが、モール、ゴルフ、病院、レストラン区などなど多くお世話になったことは書いておかねばならない。
ポンドックインダーは広くそれ自体が行政区でもあろうと思ったが、行政区はPondok Pinangであり、上記に記した諸施設はすべて、区(Kec)の東北(右上)に所在しており、そこからゴルフ場を経て南に住宅地が広がるが、既に個人が購入して数十年であるが、住宅地区を表す言葉はやはりPondok Indah以外知らない。通りの名前にalam(自然)と言う言葉が付くのが住宅地の北半分でhijau(緑)が付くのが南半分というしかない。

追:このブログの所為であろう。今日金曜日だと思ってスタートしたが土曜日であった。ブログアップも忘れ、薬投与も1日分マルマルのこっている。いつ1日が無くなったのだろうか。
あっそうそう、EpsonのPrinterがいつの間にか使えなくなって諦めるまでの1日の苦闘があったことも忘れていた。

2021年5月22日 (土)

Ciputra World 1&2と RDTX Tower 1~3

Ciputra-world-1-2-2戸田建設が共同開発するNewton2はCiputra World 2にあるので、Newton 1はWorld 1にあるかと思ったが、小生が最初何気なく眺めていたGoogle MapにはWorld 1自体を見かけなかった。多分そこを代表するLotte Shopping Avenue(Lotte World?) からの要望でもあったのかと思った。こういうNo.1などの番号は後から2の候補が出て来て、出てきた後No.1と区分けの必要が出てくるので通常No.1と番号を付けないことが多い。

No.1の一番右端はDBSビルがありそこもCiputra 保有ビルで右はRDTX Placeである。戻ってNo.1の左端はSomersetコンドミでこれもCiputra保有である。その左隣がRDTX Towerである。つまり二つのRDTXの間がWorld 1である。
そしてここで言うWorldとは何かを問うと当初はやはりモールを意味したもの或いはモールを代表とするブロックなのであった筈。
さすればCiputra World 2の代表モールは何かと探すと多分Tokopedia Mallになるのだろう。その名前が少しの間、出たことがあるが今は定かではない。このビルもCiputra保有で名称権をTokopediaが取ったもので、現在本社と定めてい居るSlippiのWisma 77を出るのであろうか。そこはSlippiValleyとも言われるStart-up企業が集まっているそうだ。
W12-from-layang今回はWorld 1-2 と、一寸前のブログViva Cita Tex‼(RODA VIVATEX)の組み合わせのロケーション確認だけである。何せWorld 3と言うのも計画があると言うので別途にしよう。

2021年5月11日 (火)

秘密のオーセンティック伝統料理キラキラ亭

Kila Kila By Akasyaと言うレストラン名を記録していた。何かの縁でダウンロードしたのか、場所はどこかを見ても住所は7th Floor, Jl. Jend. sudirman kav 52-53 No.Lot 4, RT.5/RW.3, Senayan, Kec. Kby. Baruとあるだけで無駄なRT/RWやKebayoran Baruとか書かれていてもビル名は不明である。
Kira-kira-by-ak添えられた数少ない風景写真からはモスクが見え、その奥に高層ビルがあるだけでクイズに挑戦しようと思ったが、遠くにダルマラビルが見えるが、確定は出来ず、この住所でGoogleしてしまった。場所はなんとこの間アップした小生個人の記憶のプルサダの場所である。ここはPacific Placeに行く時右手に雑木で見えない空間である。Googleを拡大すると何か野菜畑みたいに見え、Poldaメトロジャヤ(首都警察)からはアクセスできそうなCafé Gardenもあるから畑に違いない。目的のレストランは7階だというからここにあるWinataのビルだと思ったが、そうではないようだ。そのレストのビルは確かに低層(7階建て)ではあるが、隣がモスクでその隣がウイナタのArtha Grahaビルであるので別のビルである。GoogleにはRestoran bergaya Modern dan Eleganと説明がある、高級そうなインドネシア料理レストランである。オーナーはアカシアケータリングのEnny Latiefと娘さんである。
Kirakira-by-akasya-to-darumara-intiGoogleでDirectionを取ると会社からこのPoldaメトロジャヤ(首都警察)のスディルマン通りの入口で、行きつ戻りつしながらも結局POLDAに入って其処から辿れるようだ。このビルが何なのかは調べるのはやめたが、ウイナタのビル名もGoogle Mapでは表示がない。
レストランはRooftopにあるのでゆっくりするにはいいだろうし、Autenthic(オーセンティック:本物の)、Prestige(プレスティージ:威品のある)タッチを味わえる。
Autentictouchatkilakilabyakasya

2021年5月 4日 (火)

各地のPadepokanとDepokの謂れ

4月26日のブログでPadepokan ASAのTirto.idに関してPadepkanがDepokの謂れになることについては、書かねばならないとしていたが、もともとDepokの謂れはどれも同じことが定着していたと記憶しており、
Jun07-depok-016小生も2007年「もう一人のCornelis Chastelin」や「Cornelis Chastelinとデポック住民」というブログを書いていたが、この二つのブログには肝心のDepokの謂れについての説明も加えてなかった。今、慌てて追加すると;
このCornelis氏が所有した土地(Depok Lama地区)に関連してDe Eerste Protestante Organisatie van Christenen(最初のプロテスタントの組織)と言うオランダ語の記述があり、その頭文字から出来たとするものであった。しかし、その後の定説では、この外国語発生説を打ち消して、これよりも何百年も前の事になるのか、スンダ語派生のPadepokan説となっているのだ。
その誤解の大元はデポックが首都の隣接地としてエリート地区とするべく不動産業や新住民が何らかの謂れを探そうとしていた時代があったからで、多くの人がDepokになぞらえた略字などを探し、この外国語派生説が有力になっていたからであろう。
Depok という名前はこのような略語ではなく、話は長くなるが直接的には
2014-bogor-15618世紀、バンテンのスルタンがイスラームを広めるためにパデポカン(教育訓練の場)を設立したことが関連している。まずパジャジャラン王国(1030-1579年)の時代、人々はこの地域をDEPROKと呼んでいたが、その意味はマレー風のリラックスした座り型を意味するものであった。
この地域を巡回したシリワンギ王はチリウン河流域の丘の美しさにしばし座って見とれることがあった。その後の時代のバンテンのAgeng TirtayasaとPangeran Purbaも、しばしばチレボンに向かうので、ここで一休みするようになった。上記Padepokan を設置したのはPurba皇子の後継者のEmbah Raden Wujud である。Padepokangaその地を意味するようになり短くDepokと言うようにもなった。そしてその元はDeprokである。
Cornelisの地所はDepok Lamaで現在のDepokの1/10程度であるが単位となる行政地区になるのが1981年、市制となるのが1999年である。多くの人がジャカルタに通勤で来ていたのでジャカルタとばかり思っていた時代があったが、Depokはボゴールから独立したものであった。
オランダの有名な探検家であったAbraham van Riebeekは1730年にDepokは外国語派生ではないことを旅行記に記述してもいたのである。
PADEPOKANはこうしてイスラム修行の庵とかイスラム社会の教育のプサントレンの意味にも各地で使われているようで、中でも小生に取って特異なのはスンダ・Jawa以外でもバンカ島の東海岸沿い、スンゲイリアットに建つPadepokan Puri Tri Agung(参聖殿)と言う仏教、儒教、道教の礼拝所が珍しい。ハリムに向かう道傍にあるゴルフ練習場Pedepokan Pringondariもある.

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2021年5月 3日 (月)

デポックのオランダ人記念碑の論争

DepokにTugu Depokと言う記念碑があるようなのでGoogle Map調べるとTugu、Depokとされた。つまりTuguと言うのは塔と言う訳でなくジャカルタのTuguと同じように地区名とされた。その地区はPasar Minggu 通りを南下してイオンも超え、更に下るとインドネシア大学の広大なキャンパスを右に見る地区の左にMorgonda のMargo Cityがある東の地区である。ここには馴染みがないので色々検索しているとDepokには多くの塔や時計台や記念碑が多いことに気付く。
Rs-harapan-depokその一つにDepokの謂れに関わるCornelis ChasteleinのMonumenがある。それは上のMargondaを越えて更に南下して第2外環を超えると左(東)側がDepok Lama地区でこの西側を含めDepokの中心地になるようだ。
Depok駅もここにあり市役所は西側にあり目指すMonumen Cornelis Chasteleinは東側の地区にある。この像には、地区住民には愛される男ではあるが、その記念碑を立てることは行政府が反対をして来た状況がある。
この地区の住民はこのオランダ人がバリから連れて来た労務者であったが、彼らが耕作して来た土地はそのまま下付され又12人の使徒よろしく地区の先祖と言われるが、今のDepok市の中ではやはりムスリムが多いので植民地男の記念碑は論争の種になっていたのである。
Jun07-depok-015この記念碑がある道はJl.Pemudaであるが、その先にCornelis Chastelein財団(YLCC)があり、大昔そこを訪れたことがあったがその時はこの記念碑の事は気が付かなかった。 今見ると記念碑は道の傍でなく奥まったHarapan Depokと言う病院の前庭にあるようだ。しかしこのYLCC自体が、コルネリス記念碑を世話し、戦い続けるコミュニティだったようで最初の記念碑はCCの没後200年の1914年6月28日に最初に建てられたが、1960年に破壊され、今回も2002年に計画して、完工に12年を要しているそうだ。
この労務者達への行為はヒューマニズムの立場からは問題ないはずで、又それがDepokの歴史的事実の一端であることも反対されるものではないが、多分記念碑に書かれたキリスト教徒という文言が問題だったようだ。結論はどうなったか、キリストという字(文章)を削ったかどうかは知らないが、ムスリムに(取って)はSensitiveだったのであろう。
Jun07-depok-021写真は近所の教会

2021年4月16日 (金)

トリコラがモロタイやメナドの観光資源に?

ジョコウイがハルマヘラの飛行場式典に出かけたニュースから、モロタイの日米戦争記念館など現地政府が遺品などの整備展示をしていただいている話を書いたが、
Trikora-tugu-morotaiその日米戦争の記念館には イリアン開放作戦のTrikoraの記念碑もあった。トリコラ(Tri Komando Rakyat)と言うのは1962年イリアン開放に向けた国民の任務として① オランダのパプア国設立を失敗させること ②西イリアンに紅白旗をたなびかせること ③総動員の準備をすることの三大命令を下した。少将スハルトがマンダラ作戦を担当しソ連の武器で装備した大規模作戦であった。ムルダニがRPKAD落下傘部隊総司令官としてを指揮し6月には100名のメラウケ降下させた。この本気度作戦と脅しでオランダは米国の仲介に従うしかなく、7月対オランダ勝利宣言を経て1年後領有となるのであった。先日のSarwo Edhie Wibowoはこのあとの1965年のこの落下傘部隊の総司令官である。
このトリコラ作戦が何故モロタイなのかは思い当たる節は無い。多分にマンダラ作戦の象徴はアル―海戦などもあるが、パラシュート隊の降下作戦であるからであろうか。
日本軍のパレンバン降下作戦の印象も強く残っており、日本の元参謀に助言を求めた話もこれあり、その基地としてMorotaiが使用されたのではないかと思う。Morotaiには米軍がフイリピン奪回用の立派な滑走路もあり、尚且つこのマンダラ作戦の前に対スカルノの反乱(Permesta)が起こり、この時もこのMorotaiが降下作戦の場所であった。Monumen(Tugu)Trikoraはあと一つ、モロタイ島の西のスラウエシ島のメナド近くにも立派に仕上がった観光施設がある。こちらもトリコラ作戦時やPermesta作戦で使用された飛行場や作戦機DC-3 ダコタ機があった故らしい。Tugutrikoradipulaulembehbitung-1場所はメナドから東へ25km弱の対岸である。
他にもしやとGoogle Mapで検索すると国軍(TNI)本部のCilangkap(ゴルフ場)のTNI博物館(Museum Bhakti TNI)にもあるようだ。
161222bahangambar3001800x445ここは国軍歴史の全体の博物館故、全国の戦蹟・記念碑等の紹介でVideoを見たが説明の少ないサイトであった。
マンダラ作戦はトリコラの発出の日からオランダの協定案受諾の日(19 Desember 1961- 15 Agustus 1962)迄で、一方Permestは1958年2月18日の革命政府PRRI宣言(スラウエシは1957年3月:スムアル中佐のマングニ評議会のプルメスタ宣言)から61/9/19 シャフルディン・プラウイラネガラ(革命政府主席)の投降 を経て1962年1月のゲリラ掃討終了までである。